走ることについて。10

ときどき、本当に自己嫌悪に陥る。自分には生きている価値はないのでなかろうかとさえ思えてくるほどに。実際に、これまで数えきれないほど多くの人を傷つけてきて、悲しませてきているし、悪いこともいっぱいしてきた。

つくづく、どうしようもないなあと思うのは、自分の中では結論が結構早いタイミングで出てしまっているのに、それを伝えるのが怖くてずっと先延ばしにしてしまって、さらに多くの人を傷つけてしまうことだ(ところで、僕のGoogle日本語変換では「どうしようもない」と打ったところで、「どうしようもないクズ」と出てくるが、これは何かのあてつけなのだろうか)。自分の直感が命じている結論と、大切にしている義理人情の間でいつも板挟みになる。非常に自己中心的な板挟み。しかも、8割がたは、直感ベースの行動をとる。

自分の罪を知らない人だけが善人面して他人を裁きたがる。僕の美徳がもしあるとすれば、素直に自分のダメ人間ぷりをきちんと認識しているところだと思う。だから、感情が高ぶっているときだけは他人に対して批判がましくなるけれど、少し時間が経つと、ああ自分もダメ人間だし、そんなもんだよね、という気になってくる。

僕が機会の平等のために何か行動をしているのは、特に高尚な理由からきているわけでは全くなくて、自分がどうしても許せないものが機会の不平等であること、今まで背負ってきた罪滅ぼし、という側面がとても強い気がする。絵かきが絵を書くことや、チーターが走ることとほとんど変わらない。全ての人が、環境の押し付けてくる宿命を乗り越えられる世界を作りたいのは、自分自身にまとわりついてくる桎梏に対する怒りなんだと思う。

いつか、そういったものから抜け出して、自分があたかも神様のボールペンであるかのように世界を描くことができたらいいなあと思う。自分の怨念や想念や自己顕示欲から離れたところで、自分のなかにある則にだけに自然に従うことができる状態。仏教にも詳しくないので勝手な解釈だけど、般若心経の説く「空」というのは、そういうことなのではないだろうか。

走ることだけでその精神状態にはたどり着けないかもしれないけれど、ヒントは与えてくれる。特に、人間がいない場所を一人黙々と走り続けることは、大切なものをたくさん教えてくれる。

さて、走りの続きを書こう。


7日目(作並駅→上山市)

東京での大切な用事を終えて仙台に戻り、仙台市の西にある作並駅を出発したのは午前9時も過ぎた頃。ここから、第二ステージが始まる。目的地は富山県。宮城県、山形県、新潟県をまたいだ先だ。

最初の30kmはずっと作並街道(山形県からは関山街道という名前になる)を進む。こんなところを歩く人もいないので、歩道はないし、トラックがビュンビュン走っているのでストレスがかかる。つくづく、この道を夜に通ってなくて良かったと思う。

(宮城・山形県境のトンネル)

山形県と宮城県の県境までで登りはおしまいで、あとはずっと下り。最初の1kmは、歩道が全くない1kmのトンネル。歩行者を想定していないからか、空気がとってもこもる作りになっていて、排気ガスで気持ちが悪くなる。

これまで、こういった歩道のないトンネルを国道で見かけたことが無かった。なので、このあたりは随分と道路整備がきちんとできていない場所なのかと思っていたのだが、こういったトンネルは地方では全く珍しくないことをこの先の道で思い知ることになる。

(交通量は多く、歩道はない国道。山奥はだいたいこんな感じ)

トンネルを抜けて更に3kmくらい走ったら、やっと自動販売機とラーメン屋が見つかったのでそこで休憩。下りで、また膝が痛くなってきた。歩きと走りを交互にしながら走る。まだ走りのフォームが完全でない証拠。明日はもっと身体とちゃんと話しながら走ろう。

天童市に入ったのは2時頃。「3月のライオン」で読んで以来ずっと来たいと思っていた将棋の町。町の中心部には将棋駒を模したものだらけで、郵便ポストにまで将棋駒がついている。天童市の郵便局に入っても、残念ながら天童切手は見つからず。代わりに「おしん」の山形特別版切手を買う。郵便局のおじさんに「下関まで行くんです」といったら、タオルをくれた。

天童市を走り抜け、山形市に入る。少しずつ膝が自己主張を始めてきたので、近くにある接骨院で休憩兼膝と腿まわりのストレッチをしてもらう。今日は常にぱらぱらと雨が降っていたのだけれど、ストレッチを終えて出るころにはかなりの本降りになっていた。雨具をつけて残り18kmに向けて出発。出発したのは5時半でもう暗い。

山形を抜けて、上山市に入るあたりで、予想通りというか、よくわからない道にGoogle先生に連れていかれる。暗いとどの方向が正しいかという僕自身の方向感覚があまり利かないので、Google mapナビの指示通りに人が全くいないちょっとした山道を走り、目的地についたのは8時も過ぎた頃。

ホテルはいつも直前にネットで探して、検索結果上位で値段が予算内ならあまり考えずに取るようにしているのだけれど、今日の旅館はかなり当たり。大正時代からある、とってもいい雰囲気の旅館。


8日目(上山市→関川村高瀬温泉)

当初の目的地だった小国町のホテルが、ビジネス目的のお客さんでいっぱいで予定がとれない。そこから10km以上離れたところにある高瀬温泉が目的地になった。寄り道も含めると90km以上走ることになった、長い長い一日。

(上山市のマンホール)

上山市の旅館を出たのは7時40分。温泉につかったお蔭か、膝は結構きちんと回復している。痛くはあるけど、一日中頑張れそうだ。

国道沿いにある果樹直売所でトイレを借りたら、おじさんが入ってきて怒鳴られた。「こら、スリッパ使え」と。急いでいて、スリッパが目に入らなかった。おじさんは「お前のためにつくったトイレじゃないんだっぺ。子どもじゃあるまいし、そんなこと分かないんだか」と猛然と怒る。スリッパを履かなかった僕が悪いので、平謝りに平謝り。

ずっと走って40kmくらいのところで飯豊町へ。5kmくらい遠回りだけど、当時ここにあった親戚の伯母さんの家を訪ねる。住所も分からず、飯豊町にあるということしか知らなかったのだけど、伯母さんのやっていたお店の名前は覚えていたので、それを頼りに町の人に聞いて回る。どうやら国道から3kmくらい離れた場所にあるらしい。町の中心地にある郵便局に行ったら、10年以上前に無くなった家のことを覚えていて、道を教えてくれた。郵便局から1kmくらい。Googleでは見つからないけど大切な情報はまだまだある。

うちは裕福ではなかったので、普通だったら習い事やお金が必要な遊びができるわけはなかった。だけど、この親戚の伯母さんの金銭的なサポートのお陰で僕は囲碁の道場に通うことができたし、休みの時期には飯豊町にやってきて、夏は虫取り、冬はスキーとたっぷり遊ばせてもらえた。子どもの頃の、今となって思うとお金がかかっていた遊びや学びはほとんどこの伯母さんのお蔭で、僕はいまもこの伯母さんの養子になるという約束になっている。伯母さんはもう74歳で、この本州横断マラソンのラウンド2の前日に誕生日祝いの焼肉を食べた。74を過ぎた今も矍鑠としている。

(伯母さんのお店の裏にある田んぼ。この風景だけは変わっていなかった)

寄り道をして国道の小国街道に戻った時点で走行距離は48km強。ここから目的地まで46kmで、時間はもう15時。随分と遠いなあ。覚悟を決めて走りはじめる。

小国街道は山形県と新潟県を結ぶ古くからある国道で、途中にある山の間を縫って進む。日が完全に暮れた18時頃から猛烈な雨が降る。山の天気は変わりやすい。バックパックの上からレインウェアを重ね着して、下もレインウェアを着るものの、靴はぐちゃぐちゃになる。山しかないので真っ暗で、かつ歩道もないのに、車はたくさん通る。危ないし、車の水はねがドバっと降りかかってもくる。

調子のいい時に平常心とか言うのは誰でもできて、こういう状況でも心が折れないようにすることこそ訓練だから、音楽を聞きながら黙々と進む。1時間くらいそのまま走って小国に着いた頃には雨は小振りになってきた。途中のセブン-イレブンでご飯を食べて(この25kmくらい、お店が何もなかった)、シューズに手ぬぐいを入れて水気をとり、靴下を変える。靴下が濡れたままだと、足がふやけて、どんなに普段たくさん走っている人でも、ものすごい豆が出来てしまうから。

小国を19時過ぎに出て、山をいくつも抜けて、高瀬川温泉に着いたのは22時過ぎ。宿まで行くのにコンビニを探しに2kmくらい遠回りしたが、全く何もなく、宿に着いたのは11時前。

旅館の女将さんが、「ごはん食べた?食べてないよね。じゃあ、おにぎりを作るから待ってて」といって、おにぎりとまかないご飯のあら汁スープをくれた。お腹ペコペコだったので、本当に助かった。

旅館の部屋のなかでストレッチをしながらLIPの電話会議をして、お風呂に入って、荒れている皮膚の薬を塗って、バンテリンを塗って、ストレッチして、洗濯をしたらあっという間に1時。気づいたら眠っていた。


9日目 (関川村高瀬温泉→新潟市)

ゆっくりと休んで、高瀬温泉を出発したのは9時40分頃。朝になって気づいたのだけど、高瀬温泉がある関川村は小さいながらとても美しい村だった。村の中心には昔からある武家屋敷風の建物が並んでいる。

そこからずっと走り、村上市へ。ここまで来るとお店もたくさんある。コンビニで買ったお鶏カツ丼を歩き食いしながら進む。なんと行儀の悪いことかと思うけれど、とにかく前に進み続けたい。

胎内市に入ったあたりから、新潟までの最短距離を走る幹線道路がなかなかなく、Google Mapの命じるままのショートカットを進むと、田んぼの間の砂利道をたくさん歩かされてかなり難儀した。大きめの石がごろごろあったので、足も大分痛くなった。でも、国道ばかりを走っていたら見えない風景の多くが、こういった脇道にあるのも事実。楽しむしかない。

(Google Mapの示す道をひたすらに進むとこんなこともある)

更に、新潟市内に向かう道でも、Google Mapは「国道7号線のバイパスに合流」と書いてあるものの、このバイパスには歩道がなく、新潟中心地まで行く際の大きな橋を渡るときには、橋を探して2kmくらい遠回りせざるをえなかった。

(歩道がなくて渡れなかった橋が遠くに見える)

靴を見ると、ソールがすり減り過ぎていて、硬い部分がなくなっている。砂利道のこともありいよいよ足裏が痛いので、新潟市内のスポーツ用品店を探して靴の履き替え。一番欲しかったゲルカヤノがないので、asicsのNewyork2のワイド版を購入。色が赤でかっこいい。普段はレギュラーの足幅の靴を買うのだけど、走っている期間は足が常に腫れているので、ワイドのほうがちょうどいい。

新潟市の外れにあるホテルまで着いたのは22時半。大分つかれた。喉が痛い。


10日目(新潟市→長岡駅)

朝起きたのは9時過ぎ。7時間半眠ってしまった。

起きてすぐに身体の異変に気づく。喉が異常に痛いし、熱がある。真黄色の痰もでる。どうやら風邪を引いたらしい。

とはいえ進まないことにはどうしようもないので、クラクラしながらも出発の支度をして10時20分に出発。元気をつけようと、ホテルを出てすぐそこの吉野家に入り、ねぎ玉牛丼特盛り+キムチ+味噌汁をガッツリ食べて10時40分に出発。

最初の20kmくらい、燕三条駅の近くにつくまでは基本的にずっと新幹線の下を走る。本当に快適な道だった。道路はきちんと舗装されているし、車通りもとても少ない。喉の痛さの一因は排気ガスだと思うので、国道8号を走らなかったのは正解だかった。

走っているうちに気分が良くなってきて熱もなぜか下がる。不思議なものだ。膝の痛みもさほど強くはない。というわけで、いつになく良い調子で走り続け、LIPのミーティングにもSkypeで気持よく参加していた。

しかし好調もつかの間。日没後に、長岡に向けた道を走りながら陸橋を越えようとしているタイミングで、アキレス腱にずんと鈍い痛みが。痛みは一時的に収まったものの、1km走る毎に痛みは強まり、最後には歩くだけでも激痛に。でも歩くと身体が冷えてもっと痛みも厳しくなるので、走り続ける。誰もいない道で、思わず「いーたーいー」と叫んでしまうくらい痛い。塩沼亮潤さんが千日回峰行のときの体調について「調子は悪いか最悪」と言っていたことの意味がなんとなく分かってきた。

脳は一番痛い場所しか認識しない。このアキレス腱の痛みのせいで、他の箇所にあったはずの痛みが全て吹き飛んだ。やっとの思いで長岡駅の周辺までやってきて、まずは薬局に入りテーピングを購入。ガチガチに固めてみるものの、やっぱり痛い。

どうしようかと途方に暮れる。ちょうど長岡は新幹線の駅だし、一度東京に戻って鍼を打ってもらおうか。1日分の遅れくらいなら、後から取り戻せるだろう。

これだけ痛いと、どうしても弱気になりがちで、色んな辞める理由が思いつくのだけど、こういう場面に直面することこそ、自分と向き合う機会なので、とりあえず行けるところまで行くことに決め、長岡駅のルートインホテルでゆっくりと休むことにした。

とか弱音を心の底で吐きながら、長岡駅前の居酒屋に入って、まずはガッツリ食事。食べなきゃ良くならないと思ったので、居酒屋サイズのサラダ+刺身盛り合わせ+唐揚げ+大盛りご飯2杯をビールと一緒に食べる。午前12時半、この文章を書いている今も胃が唐揚げで埋まっているくらい、食べた。

そこからフラフラと歩いて、長岡市の市庁舎の隣にあるホテルに泊まる。ホテルの人が氷を持ってきてくれた。これでアキレス腱をアイシング。それと、アキレス腱の痛みはふくらはぎの筋肉の不機能にもあると思うので、ふくらはぎもしっかりストレッチ。明日には良くなっていますように。

(この日の終着点。長岡市の市庁舎。設計は隈研吾氏)


11日目(長岡駅→上越市)

これまで一番きつかった一日。

ゆっくり休みをとって長岡のホテルを出たのは9時半も過ぎた頃。そこから、是非に行っておきたかった河井継之助記念館に行き、そこから50mくらいのところにある山本五十六記念館にも向かう。山本五十六が長岡出身とは知らなかった。この街は人材輩出都市なのだろうか。米百俵の精神が生きているのかもしれない。

河井継之助は長岡藩をスイスのような中立藩にするための直談判をするものの、それが決裂したのが1867年5月2日。その後死んだのが同じ年の10月1日(僕の誕生日だ)。山本五十六も三国同盟に反対し続けたが、結局1940年の9月27日には日本・ドイツ・イタリアの同盟を迎えることになる。その後太平洋戦争に突入し、ブーゲンビル島上空で死んだのが43年4月18日。二人とも、合理精神を抱き平和を望みながら、いざそれが無理と分かればきちんと自分の命を投げ出した。清冽な感動を与える生き様。

走っているくらいで悄気げている場合ではなかったな。と思う。立派な生き様は沢山の人に勇気を与えてくれる。

色々と考え事もしているうちに、11時に近くなり、出発する。走る途中で、柏崎刈羽原発にちょっと寄り道。福島みたいに原発の建物が見えるかと思ったら、森に囲まれていて何も見えなかった。周りには僅かながら原発反対の看板などが。

柏崎市を出る頃にはもう日が暮れ、そこから36kmの海岸沿いの国道8号線ランニング。海岸沿いといいながら結構高い場所を走る。明るかったら絶景だったのだろうと思える場所もちらほらあり、少し残念。

ここからが難所だった。まず閉口したのはすごい雨。時間が経つ毎に厳しくなり、最後にはちょっと弱めのシャワーと同じくらいの激しさになる。トラックがヨコを走ると、プールで水をかけられたのと同じくらい水が飛ぶ。靴もぐちゃぐちゃになり、足の水ぶくれは形容しがたいサイズになる。

そして、最後にやってきたのがやはりアキレス腱の痛み。今朝は痛みも大分引いていて、行けるかもしれないと思わせてくれたが、やはりダメだった。坂道を歩こうとしたタイミングで、これまで経験したことがなかったレベルの「ずん」という痛みが右足のアキレス腱に走る。だましだまし歩いてみるものの、2kmと経たないうちにもう歩くのも痛くなる。

雨がひどいので、テーピングをしようにも雨宿りする場所まで辿り着かないといけない。やっとの思いでたどり着いた地下道の入り口で腰を降ろし、普段つけているキネシオテープの上に、テーピングをして足首をガッチガチに固める。「スラムダンク」で赤木が海南戦でやったときと同じくらいの気分。

それからふらふらと進むうちに、23時15分にようやくホテル到着。アキレス腱の痛みは尋常でないレベル。

びっこを引きながらホテルのお風呂場に行く。そこで一緒になったトラックの運転手さんが、富山までの行き方と富山の観光名所を教えてくれた。なんでも富山と石川は犬猿の仲らしい。そんなことはじめて聞いた。

とにかく、アキレス腱の痛みが尋常でない。断裂するまで走るべきではないので(結果として予定が遅れる)、どうするか悩ましい。


12日目(上越市→糸魚川市)

夜に、アキレス腱の痛みと筋肉の炎症からくる熱で何回も目が覚める。うとうとしながら起きたのは朝八時。一晩中氷につけていたけどアキレス腱の痛みは収まってくれていない。

とにかく回復のために、と、いつもどおり朝ごはんはこれでもかというくらい食べる。今日はサラダと肉豆腐と納豆2つと小さなパン6つとご飯大盛り1杯、卵2つ、オレンジジュース2杯、カフェオレ2杯、あ、それと春巻き3本。僕にたった一つだけウルトラマラソンのランナーの資質があるとすれば、どんなときでも胃腸の消化能力がほぼ衰えないことだ。丈夫な内蔵に心から感謝。

アキレス腱はけっこう厳しい状態なので、ネットで調べてアキレス腱固定のテーピングをする。キネシオテープと普通のテーピングの合わせ技で、テーピングをするのに20分はかかるが、それでも必要なのでテーピングをする。

昨日の大雨で濡れた服やバックパックも全部乾いた。不思議なもので、ホテル備えつきのパジャマを着た状態で朝に目が覚めたときには「今日という今日こそはもう無理かも」と思うのだけど、テーピングをしてランニングウェアを着て、荷物を背負って、最後に靴紐を締めると、なんだかんだ前に進もうという気持ちになる。前に進めないときにこそ、自分にスイッチが無理矢理に入る儀式を行う必要は大きいのだろう。

それにしても、今日の前半は厳しかった。天気予報では雨はパラパラと降るだけということだったのだけど、午前中はまた豪雨。そのあたりの排水口から水が滝のように流れている。海も大荒れだけど、今日みたいな日だからか、サーファーたちは楽しそうにサーフィンをしている。でも、荷物を持っている身としては中身が気が気でない。昨日の雨で、手紙の便箋やら何やらが全て水で変形してしまった。何重かの防御をしているMacBook Airはかろうじて無事。シューズが水浸しになると足がふやけて十中八九特大の豆ができる。

正直なところ、冬の日本海側をなめていた。こんなに寒くて天気が悪いとは。11月の冷たい雨がレインウェアを通り越して体に染み込み、痛い足を抱え、風邪をひきながら(身体中が炎症を起こしているので、ほぼいつも体温は38度くらい)、重い荷物を背負って、一人孤独に走るのは結構きつい。でも、こういう状況からこそ人は何かを学びとることができる。

唯一僥倖だったのは、今日のルートには、32kmからなる自転車・歩行者専用道路があったこと。いつも歩道がない場所が必ずといっていいほどあって、そういう道を進むたびに轢かれるのではないかという心配が結構疲労を増大させる(特に夜)。ずっとそういう心配をしないで済んだし、途中にいくつかあった歩行者専用トンネル(車と一緒に通るトンネルはうるさいし危ないので相当なストレス)で何回か状態を立て直すことができた。

激しい雨があがったのは13時も過ぎた頃。20km走ったところで、名立の「道の駅」に立ち寄る。今日はアキレス腱は痛いし、雨がひどくてあまりにひどいときには雨宿りしたので、時速5km弱という非常にのろのろのスピード。

昨日お風呂で一緒になったおじさんが「この国道の道の駅は地元の旨いものがたくさんある」と言っていたのでレストランに行ってみたら、確かに美味しそうな魚がいっぱいある。

痛みと雨でかなりこたえていたので、景気づけに2600円の特盛り海鮮丼を注文。ご飯の上に、これでもかというくらい具が乗っている。うに、いくら、とろ、えび、サケ、タイ、ハマチ、etc。どんぶり一杯のご飯では少なすぎたので、別途どんぶりご飯を頼んだくらい。

これで大分元気が出た。第二ラウンド最終地点の黒部までの距離は上越から90kmなので、中間地点の糸魚川市が今日の目標地点。残り半分は、予想以上に楽に進むことができた。食べ物が効いた気がするし、本当に気をつけて走ったので、アキレス腱の状態は昨日に比べて更に悪くなってはいない。

明日黒部までの46kmで第二ラウンドはお終い。明後日の早朝から東京で用事があるので、黒部に16時到着目標。


13日目(糸魚川市→黒部駅)

この走りを始めてからいつもそうだけど、朝が一番最悪の時間だ。目が覚めても身体が全力でストライキを起こし、不平を申し立てる。いよいよ終わらせようかという考えが頭をよぎる。

昨日は氷袋を足に巻きつけて眠ったものの、アキレス腱の周りは相変わらず腫れていて熱を持っている。膝の痛みは、アキレス腱のために気にならなくなった。びっこを引きながら食堂にいって朝ごはんを食べる。

朝一番で地元の病院の整形外科に行こうかとも思ったけど、お医者さんに行ったら黒部から東京行きの終電に間に合わなくなりそうだったし、どうせ言われることは「走るのを控えるように」だけだろう。僕が知りたいのは、どのラインを越えて走ったら本当に僕が壊れてしまうのかであって、それは普通にお医者さんが線引きするよりもずっと後ろにある。多分スポーツをしてギリギリを経験した人でないとそれは分からない。いつも通りのがちがちテーピングをして出発。

歩くと自然にびっこを引いてしまう状態で、早歩きより遅いジョギングで走り続ける。休みをほとんどとらなくても、平均時速5.5km。かなり遅いけれど、アキレス腱のためにびっこを引くようになってから、もうかれこれ120km走ってくれている自分の足には感謝する他にない。

これだけ足がきついと、自然にランニングのフォームがヒョコヒョコ走りになる。間寛平さんがこういうフォームになったのも、本当によく分かる。このヒョコヒョコ走りが、足と筋肉への負担が一番少ない。

今日のランニングの15kmくらいの場所に親不知(おやしらず)という場所がある。当初はここを昨日の目的地にしていたのだけど、行ってみて、そうしないで良かったと心から思った。山と崖と海だけの道が10kmくらい続く。道も狭いのに交通量は多い。急カーブが多いので、カーブの出会い頭で轢かれないよう、眼と耳にものすごく神経をつかった。

(隣は絶壁。出会い頭で轢かれないために神経を最大限集中させる)

この親不知は、むかしは「天下の険」とよばれ、道の険しさ故に皆自分の身を守るのに精一杯で、親は子を忘れ、子は親を忘れてしまったことから「親不知子不知」といわれたのが地名の由来だという。道の下調べは本当にきちんとするべきだ。ただ、そうすると冒険の楽しみが若干薄れるのも事実ではあるのだけれど。

(不吉な連想をせざるを得ない地名が多いのもこのエリアの特徴)

親不知を抜けたらようやく新潟県最西端の町、市振へ。少し走ると、ついに富山県に突入。とにかく新潟県は長かった。山形県から入ってここに来るまで、250kmくらいずっと新潟県だった。

富山に入ってからは平地がちの道をヒョコヒョコと進む。見事な夕日を見て、暗くなる頃には、終着駅の黒部駅に到着。

元々は黒部駅16:10分発の特急に乗ろうと思っていたのだけど、足と相談して18時に時間変更。以前リタイアしてしまった川の道フットレースの最大の反省は、休みを取り過ぎ時間管理をきちんとしていなかったが故に、自分の足ときちんと対話をせずに無理をしてしまったこと。ずっと走り続けるためには、身体ときちんと会話をしながら、再起不能にならないギリギリのところを進む必要がある。

(黒部市の夕暮れ。昨日までの豪雨が塵を全て払ってくれ、美しかった)

これで、本州横断マラソンの第二ラウンド終了。ようやく半分弱。


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