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人生における重荷の意味

昔から僕は「なんで自分だけ」と思うことが多かったんだけど、今になってみると、そういう重荷と感じてたものが実際にはそうではなかったんだと思うことが増えた。似たような感覚を自分の人生について抱いている人も多いと思うので、少し書いておきたい。

僕の場合でいうと、お金が無かったこととか、パスポートがないこととか、在日というだけで罵倒されたり、一方でその在日コミュニティから後ろ指をさされたり、年上というだけで偉そうな先輩からひどい仕打ちを受けたり、他にもここにはさすがに書けないことも含めて、色々と思うことがあった。20代の後半ぐらいまでは、何かが起きるたびに「またか」という感じがしたし、このバックグラウンドに根付くいろんな事柄が、いつまでも亡霊みたいに自分の周りをうろついて離れていってくれないように感じてた。

でも、最近になって、ウルトラマラソンのお蔭もあってこういった気持ちから抜け出すことがすこしずつ出来るようになってきた。もちろん、今になっても、時々嫌気が差すことがあるのは事実だけど、だいぶそういうことも減ってきて、嫌なことがあるたびに、「よし次いくぞ」、「all is well」と思えるようになってきた。

そういう精神状態になると、この嫌だった重荷が違うものに見えてくるようになった。今になって思うと、そういった若い時に重荷と感じていたのは、重荷ではなく負荷だったのだな、と。亀仙人が悟空に、人生の罰ゲームとしてではなく、修行のためにつけさせていた甲羅。

不条理を感じないところには葛藤はなくて、そういった葛藤に直面して、それを乗り越えっていってこそ、その人には深みが出る。そして、それこそが人間の成長なのだと僕は思う。ニーチェは「どれほど深く悩みうるかということが、ほとんど人間の位階を決定する」ということを言ったけど、それはこういうことなんだと思う。

だいたいこういった葛藤は、人生のもう少しあとのフェーズで経験するものだけど、運がいいことに(当時は不幸としか思ってなかったけど)、僕は人生の結構早いタイミングでこういう状況にたくさん直面することができた。そういった経験が僕にもたらしてくれた一番の資産は、どんな不条理に対しても不平不満を言わず地道に物事を続けること、人の心の痛みに敏感になれることなのかな、と思う。僕がいまやっている仕事は、プロフェッショナルとしてのスキルと、こういった精神的素養が両方ないとできない。

もちろんこうやって達観した台詞は今の自分がこんな状態だから言えることであって、多くの似たような経験をしてきた人のなかでは、途中で絶望してへたり込んでしまった人もいるんだと思う。僕が今になって重荷を負荷だと述懐できるのは、困難を乗り越える強い心を育ててくれた親やその他多くの人のお蔭にすぎない。

こういった人生で直面するいろんな不条理から目をそむけないで、暗闇から見える明かりに向かって懸命に走り続けることに人の一つの幸せがあるのではないだろうか。そして、そうやって走り続けられるための条件が精神的にも物質的にも整うことが、本当の意味での機会の平等なんだと思う。これまでの幸せだった人生への恩返しとして、より多くの人がそうやって幸せを掴みとるための舞台に立てる世界を作りたい。

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