Cas9

ちょっと前くらいから、「いま自分が学生なら何の分野を学ぶか」という質問に対する答えは、バイオサイエンスだと言っている。ゲノムがデジタルで描写できるようになったこと、計算機の演算能力が極めて高くなりアルゴリズム開発も容易になったこと、遺伝子操作をできる技術がある程度確立されたことによって、この領域で起きる変化は極めて大きくなると想像されるからだ。

アナログでしか存在しなかった情報がデジタルデータになると、それはコンピュータの計算対象になる。データからは様々な洞察が得られ、その洞察はサービスや製品の形で実装される。すなわち、ある領域において(1)デジタルデータ化、(2)コンピューターの能力の十分な進歩とアルゴリズム開発、(3)実装の3つが揃うことで、大きな変化がやってくる。

Cas9は上記の3に該当するものだ。その発見に至る過程は、実際にCas9を発見したダウドナの本に詳しい。
(生物学の知識がないと、前半のCas9を見つけるまでの道のりを読みすすめるのは正直骨が折れる)

古細菌の多くが持っているウィルス対策酵素がある。その酵素は、ウィルス特有の遺伝子配列の固有の場所(たとえばADCGAATTCのように)にくっつき、相手ウィルスの遺伝子を切断することができる。この酵素は当該細菌のゲノムの回分構造をしたエリア(CRISPR、clustered regularly interspaced short palindromic repeats)の近く(CRISPR-Associated、略してCas)にある遺伝子によって発現する。

この、対象とする遺伝子配列を特定する機能(ガイドRNAが担っている)と遺伝子を切断する酵素(Cas9、正式名称はCRISPR associated protein 9)を見つけた著者らは、これが遺伝子編集にも使えることにも気づいた。というのも、Cas9を使えば、生命のゲノムの特定の場所をピンポイントで切断できるからだ。

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具体的には、ガイドRNAに切断したい遺伝子部分の情報を書き込み、対象となる遺伝子を切断する。切断された遺伝子を細胞は再び自己修復してつなぎ合わせようとするのだけど、それを細胞に任せたり、つなぎ目の間に他の遺伝子を差し込んだりして、ゲノムを書き換えることができる。

著者らがこの機能を発見してサイエンスに掲載したのが2012年、この本が書かれたのが2017年。その5年でも凄まじい数の研究が行われた。2021年の今はさらに進んでいる。

遺伝子操作がもっとも簡単なのは、生物の胚に対して遺伝子操作をすることで、この方法で多くの動植物がつくられている。マンモスを復活させるといったプロジェクトまである。他にもよく知られているのが、マラリアなどの病原菌を媒介できない特性をもつ蚊をつくりだし、その特性を優性遺伝させることで、代を追うごとにマラリアを媒介する蚊を絶滅させるGene Driveなどもある。

ただ、一旦生物が成長してしまうと、その細胞数はとてつもない数になるので、成体の遺伝子改変は容易ではない。とはいえ、例えば骨髄移植の場合であれば、自分の骨髄を取り出し、そこにある幹細胞の遺伝情報を書き換え、自分に戻すことで、病気を治すことができる可能性がある。また、ベクターウィルスなどを用いて、ウィルスの遺伝子改変力を用いて、体のより広い場所に作用させるという研究も行われている。

  

著者がこの技術の将来の可能性について期待と危惧の両方を抱いたのは正しい。特定の宗教の影響が強い国ではさておき、それがさほど強くない国では、人間の胚のゲノムを書き換え、より健康で、より強く、より賢い人間をつくろうという動きがほぼ間違いなく出てくるだろう。やり方は簡単で、体外受精をさせて、その受精卵の遺伝子を操作したあとに子宮に戻せばよい。中国ではすでに子どもの遺伝子操作を始めているという話も聞かれる。

発見した科学知識を倫理的に正しい方法でのみ用いる、というのは多くの良識ある人々が願うところだが、それが実現することはまずない。たった一人でも抜け駆けする人がいれば、こういった協調は実現し得ないし、裏切りを罰する規則が存在しない国も多いからだ。それに加えて、し、Cas9は核開発などに較べて圧倒的に低コストで実現できる。

革新的な技術が生まれると、世界は後戻りしえない。ひどい研究もたくさん行われるだろうと思う。それでも、より多くの研究者たちがこの技術をよりよい方法、たとえば遺伝子疾患を治すことや、世界の食糧問題を解決することなどに活かしてくることを強く願っている。










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