WWIIの終わりから70年目

8月15日には何かと平和祈念系のことを書くのが良いのだろうけれど、最近は世界情勢について正直あまり楽観視出来ずにいる。MECEでも何でもないが、三つくらい大きな理由がある。

第一に、先進国で起こっている格差拡大は構造的な問題なので、数十年レベルで調整が起こるしかない(情報革命は脳の代替なので、先進国で本当に一般の人びと向けの産業が残るのか僕は未だによく分からないのだけれど、おそらく機械が出てきたときの19世紀の人たちもそうだったはずだ)。その調整が(多分)起こるまでの間には、何かと世の中は騒がしくなるだろう。

第二に、今まで虐げられてきた、もしくは自国が貧しかったのでとりあえず他国の言うことを聞いてきた大国がどんどん影響力を増してきた。それを背景に、周辺国への軍事介入を行うことが日に日に増えている。今は中国・ロシアだが、他国もこれに続くだろう。特に中国では、格差由来の地方での暴動を鎮圧するために軍隊が多く駆り出されているが、こういう事態が起こる国では軍部がより大きな力を持つようになる。中国版226事件が起こらない、という確証は今のところないのではないか(もちろん、中国共産党はとっても強いけど)。あれだけ批判を浴びてきたパクス・アメリカーナを郷愁の念とともに思い出す日もくるのかもしれない。

最後に、人間は自分が経験していない痛みは決して覚えられないという点だ。先に述べた二つの状況が、1960年ぐらいの出来事であれば、それでも人々は本能的に戦争を恐れ、なんとか戦争を回避しながらの繁栄の道を探ろうとするだろう(だから、例えばカンボジアやスリランカでは、当分内戦は起こらないと僕は思う)。しかし、1945年から70年目に入る今、当時のことを生々しいレベルで記憶し、かつ積極的に言論活動を行える人はほとんどいなくなっている。そして、戦争を生の体験ではなく、情報としてだけ知っている人びとが各国で意思決定権を握る段になった。しかも、どの国においても、意思決定権者は戦争で負けない限りまず死なない構造にある。

一方で、大国らが核保有をしている現状においては、全面戦争という事態はそう簡単には起こらないだろう。強国による弱い者いじめの戦争・戦闘が今後増えていくのではないだろうか。

そんな状況で、一部の日本の政治家は結構必死に核武装のための準備を進めている。ただ、日本が核を持とうとすると国内でも大反対が起こるし、アメリカがそれを承認しないと(今は反対している)国際世論的にも難しい。どこか国土が侵略されない限り、核保有はできない気がする。

といったことを考えると、楽観視出来る材料は、正直あまり無いというのが個人的な見解。軍事はいつの時代もリアリズムで動いているので、キレイ事を言って物事が解決する気はあまりしない。ただ、格差を是正したり貧困を削減したり、色んな国の人たちがそれぞれ仲良くなれる環境を作ったり、というのは自分にも多少はできると思うので、自分にできることをやろうと思う。


ところで、芸術はこういう時であっても強い力になる。この日にいつも思い出す詩は与謝野晶子の君死にたまふことなかれ

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