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走ることについて。4

僕と走ることの関係

佐渡の208kmのレースが終わってから、僕と走ることとの関係が変化した。本当に素晴らしい関係は、時間が経つうちにより質的によいものへと深まっていく。その変化は漸次的に起こるというよりは、弁証法における量質転化の法則のように、あることがきっかけで突発的に起こる。ただし、その「あること」は、過去の積み重ねなしには決して訪れない。

これまで、僕と走ることとの関係は、どちらかというと、Marriage of Convenienceとでもいえるようなものだった。

年をとる毎に脂肪が乗っていってお腹が大きくなるようなのはどうしても受け入れがたい。脳は身体とつながっているので、健康な状態にある身体は健全な精神を保ってくれる。それに、運動をはさむことは気晴らしにもなるし、こんがらがった考えを解きほぐすのにも随分と役立つ。すなわち、僕にとって走る理由は、メリットベースのものであって、よりよいメリットをもたらしてくれるものがあれば、それに乗り換えるのに何の躊躇もいらなかっただろう。お金、ネットワーク、名声、身体といった理由だけでつながっているカップルと大差ない。走ることは、極めて自己中心的な人間にたまたま見染められ、奪われ続ける恋人のようなものだった。

今でさえ、走ることがある程度メリットベースのものであることは否定できない。それでも、この佐渡のレースを通じて、僕にとって走ることは違う意味合いを帯びるようになってきたのも事実だ。

どう変わったのか。

走ることが、教師、人生の一部、瞑想の時間になった。

素晴らしい教師は、学生がその人から得ると予め予期している期待をはるかに上回る何かをもたらしてくれる。例えば、僕が中学生の頃に出会った社会の先生は、社会の知識ではなく、様々な角度から物事を考えること、ドグマに染まらず自分の言葉で自分の信じることを語ることを教えてくれた。それは、当初彼から学ぶと予期されていたものよりも、はるかに素晴らしい財産になった。

走ることもそうだ。走ることは、予め予期していた分かりやすいメリットを飛び越えて、人間が生きていく上で大切な学びを僕にもたらしてくれるようになってきた。素直さ、謙虚さ、自意識を脱すること、生活のリズムを保つこと、ロジの大切さ、など、数えきれないほどの生きる知恵を、僕は走ることを通じて身をもって学んだ。誰かと素晴らしい関係が築かれることは、その人なり物事が自分にとっての教師となるということなのだと思う。

また、走ることは僕の人生から切り離すことのできない一部になってきた。走ることは単なる日課を越え、それなしには生きていけないものになってきている。このままいくと、関節が壊れてしまわないかぎり、僕は身体が許す限り、死ぬ直前まで走り続けていると思う。一番心配なのは膝の軟骨なのだけど、僕がお爺さんになるころには、膝の軟骨を再生させる治療法が確立されていることだろう、と願っている。

もともと、僕は走ることが好きだった。だけど、最近は、好きを通り越えて愛しているのだと思う。一緒にいるだけでそれが喜びであり、ずっと時間を共有して添い遂げたいという気持ちになれるような、親密な関係が僕たちにもたらされたことには感謝する他ない。

さらに、本当に素晴らしい関係においては、その関係に向き合っているときは、自分自身の心が安らぎ、自分を振り返るような時間になるものだ。これはなんだろうかと思っていたら、瞑想が一番それに近いことに気がついた。座禅を組むことと走ることが同じであると言うのは、いささか言い過ぎかもしれないが、特に長い距離を走っているときの自分の心の中の状態を考えると、一番近い心境は瞑想に近いといえるのだと思った。感覚が遠退き、心にさざなみ一つ立たない究極に静謐な世界は、そういった物理的に静かな場所をつくることでなく、自分の心をそういう状態におし上げることで初めて訪れる。

天上の楽園はこの世にはなく、あるとしたら人の心の中にこそある。その楽園にたどり着く方法は色々とあるのだろう。もしかしたら、僕にとっては、走ることがその楽園にたどり着く手段なのかもしれない。まだまだ、そこにたどり着くには、長い長い時間が必要そうではあるが。

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