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心臓の病は難しい

我が家の家系は高血圧ではない上に心疾患で亡くなった人もいなかったのですが、痩せ型で至って健康だった母が今年6月、急性心筋梗塞に見舞われました。

完全にノーマークだった心臓の病。

母は元放射線技師で、生死観もまとまっていました。そのため『きた!心筋梗塞だ…!』と思ったのだそうです。ちょうど私がこの翌日遊びに行くところでした。一人ではあるけど、『もう悔いはないしみんなさようなら、、』と震える手でノートにそう書いてありました。しかし、丸一日耐えたところで心臓の痛みはおさまらず、翌日の午前中循環器のクリニックへ自分で駆け込みました。

もう痛みの限界で気を失いかけていたそうです。

10時頃、家を出ようとしたところで私のケータイが鳴り止まず、出てみたら救急隊からの第一報でした。頭の中が真っ白になりました。『お母さんが心臓発作で倒れて救急搬送しています!かなり危険な状態で、処置にご家族の同意が必要になります!』と言われましたが、距離的に間に合わず、移動中に処置の判断が必要になり同意しました。母は倒れる以前から『自分に何かあっても何もしないで欲しい』と散々私達に伝えていたので『本人の意思を確認したい』と、救急隊員に言って電話を代わってもらいましたが、母がとても苦しそうに私の名前を呼んでいて、意思を確認してる場合ではないと思いました。

処置は最低限に留められました。延命にもならないほど、心臓のダメージが大きかったからです。

ICUで目覚めた母。『とんでもないよ…』といつもの調子でしたがとにかく弱々しく、必死で息をしていて見ているのが辛かったです。

ここから3週間、首、大腿部両側、左手首を固定されたままICUだと告げられました。母は悔やんでも悔やみきれないと言います。あの時救急車に乗らなければ…、もう少し我慢すればこんなに管だらけにならずに済んだのに、と。ドクターは『延命にもなっていない』と何回も言っていましたが、母は『これは延命だよ…』とひどく落ち込んでいました。

母は丸一日耐えたために、ここから一気に重症心不全になります。

早めに救急車に乗っていれば一週間後には退院して、心臓の薬を飲みながらでもこの先何十年と生きることが可能でした。母はここを最短ルートで行ってしまったわけです。自ら縮めたという点では潔い生死観ではあると思います。

心臓の病は全体が弱って見えるだけの、特殊な感じがする病です。母はICUでも3日目からLINEで私達とビデオ通話をしていました。意識が鮮明なのです。ただ、ものすごい数の管に繋がれていて、今この瞬間にも死ぬ可能性を秘めているという状態。
母は血圧が低すぎるために強心剤の点滴が外せないと言われました。通常、心筋梗塞の治療は心臓を休めるための薬を使うのですが、母の場合、痩せ馬に鞭を打つようなもの。心臓が休まることがないため、すぐもたなくなるでしょうという見解でした。

血圧が低すぎるため、心破裂の危険は少ないようでしたが、ダメージが大きく退院のメドは立ちませんでした。母はICUで気がおかしくなりそうでした。

毎日見ているだけで辛く、私達には何ができるのか?母に会うことはもうできないのだろうか?生きた心地のしない日々が続きます。

心臓の病は個人差が大きく、予後不良でありながらも、母のようにギリギリのバランスを保ち急死に一生を得る人もいれば、一瞬で亡くなる人、さまざまだそうです。だからドクターも先が読めず、何度も余命宣告をする。その度に私達は息が止まる思いをしました。

母はここから何と、メチャクチャな掟破りの、セオリー無視の連発で自宅へ戻ります。その様子はまた続きを書いていこうと思っています。結論を言いますと、今母は自宅で療養していますが、自分の力で歩き、自分の力で暮らしています。立って歩くことも可能、シャワーも時々浴びています。重症心不全を逞しく生きる母。同じ悩みを持つ方の励みになればと思います。



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