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無敗の剣豪「宮本武蔵」の実像 #1

 宮本武蔵。彼は無敗の剣豪として名高く、最早日本を代表する剣士と言っても過言ではない。


 ただ、彼の実績は作家の吉川英治が著した『宮本武蔵』による影響が大きく、かの有名な巌流島の決闘において武蔵が遅刻したという話は有名だが、これも根拠はない。
  つまり、現在世に知れ渡る通説の「宮本武蔵像」は後世の創作によるはたらきが大きく、いわば虚像である。
 この記事では通説の虚像宮本武蔵を生んだ最大の要因である小説『宮本武蔵』と江戸の世を生きた本来の宮本武蔵に比較ついて解説してゆく。




剣聖、武蔵の生涯をあらわす史料。

 剣聖武蔵を現した史料として、この記事では以下の史料を扱う。
・宮本武蔵著『五輪書』 - この記事では武蔵本人が書いたものとして扱うが、写本が遺っていないいないため文書の真偽は不明であるが、ここでは武蔵が記述したものを大体正しく写したものとする。
・宮本伊織著『新免武蔵玄信二天居士碑(以下、小倉碑文)』 - 養子の伊織が武蔵死後九年に書いたものであり、これも養子が直々に書いたものとして信憑性が高く、五輪書同様に扱う。
・豊田正脩著『武公伝』 - 武蔵の死後から大分経って書かれたものであるため、参考程度に扱う。
・吉川英治著『宮本武蔵』 - 名著として有名なこの作品だが、この著自体が通説となったいるため、今回はこの著と上記のものと照らし合わせて批評する。


剣聖、武蔵の名。

 まず、武蔵を触れる上で解説しておきたいのが、「宮本武蔵」という名前についてである。
 武蔵は表題にもある通り「宮本武蔵」という名が有名であり、武蔵の部分は幼い頃「たけぞう」と読んだ、とされる。だがこれは誤りであり、尚且つ吉川英治に創作である。武蔵の本名は「新免(宮本)武蔵守藤原玄信」という名で、「新免(宮本)」の部分が「苗字」、「武蔵守」の部分が「百官名」、「藤原」の部分が「姓」、玄信の部分が「諱」、なのである。
 これらをかみ砕いて説明すると、姓は現代人が皆持っている「佐藤」や「田中」であり、諱が「太郎」や「健太」である。ここからは現代人にない名なのだが、姓は自分のご先祖様を表すもので、平氏が先祖であれば「平」であったり、源氏が先祖であれば「源」でありったりする。これが、かの有名な「源平藤橘」と云う。最後に「武蔵守」の部分だが、これは百官名である。この説明が一番難しいのだが、これは武士が勝手に名乗るもので、実際織田信長も上総介を名乗っている。
 少し話が逸れたが、有名な宮本武蔵の名はこの中の「苗字」と「百官名」が引き抜かれ、世に知れ渡る「宮本武蔵」という名が完成したのである。
 本来戦国武将などの偉人は苗字の諱であらわすべきであるため、「新免(宮本)玄信」である。だが、この記事では便宜上、「新免(宮本)武蔵守藤原玄信」を「武蔵」と呼ぶ。


剣聖、武蔵の出生と生国。


歌川国芳画『報讐忠孝伝』にうつる宮本武蔵

 武蔵の生年と生国は、生前に宮本武蔵が記した『五輪書』にこう書いてある。

時に寛永二十年十月上旬の頃九州肥後の地巌殿山に上り天を拝し観音を礼し仏前に向ひ生国播磨の武士新免武蔵藤原玄信年つもりて六十

宮本武蔵『五輪書』,序.

 とあり、この時点で確定していることは、寛永二十年十月時点で武蔵は数えで六十歳であり、生国は播磨(現在の兵庫県南部)であること。
 だが、生国播磨に関して小説『宮本武蔵』を著した吉川英治は、武蔵の生国に関して美作国説を取っている。五輪書を見るに武蔵の生国は播磨であることは確定であるのだが、吉川は随筆にてこう記している。

序文中、生国播磨の武士とあるのは、母方が播磨なので、云ったものか。祖先赤松氏の支流なることを云ったのか、どちらかであろう。

吉川英治『随筆 宮本武蔵』,五輪書と霊巌洞.

つまり、吉川が主張するのは、武蔵が「生国播磨」と称したのは母方が播磨か、祖先が赤松氏であるかを武蔵が記したということであり、武蔵自身の生国は美作である、といったことだ。実際吉川英治も

九歳の時、ふと家を出て、播州の母の所へ…

吉川英治『宮本武蔵』地の巻,毒茸.

 と著している。しかし、この主張には無理があり、わざわざ武蔵が母方や祖先の生国を自分の生国のように記すはずがないため、武蔵の出身地は播磨で決定である。


剣聖、武蔵の幼少期・青年期。

 武蔵の幼少期は謎が多く五輪書にも簡素な記載しかない。これらを長々と説明しても意味が無いので、箇条書きであらわす。

十三歳にして初て勝負を為す、その相手新当流の有馬喜兵衛といふ、兵法者に打勝ち十六歳にして但馬国秋山といふ強力の兵法者に打ち勝ち二十一歳にして都に上り天下の兵法者に逢ひて数度の勝負を決す

宮本武蔵『五輪書』,序.

 こういった三戦のみの記載だけであり、天下の兵法者に関しては名前の記載すらない。ただ、宮本武蔵の死後に書かれた『武公伝』では、天下の兵法者に関して「吉岡清十郎」としている。ただ、この清十郎という名は『自小倉碑文』にあるものの「吉岡」という氏は、『武公伝』が初出であり、吉岡清十郎に関しては武蔵が記した『五輪書』にも、武蔵の養子の伊織が記した『小倉碑文』にもない。ただ、吉岡清十郎に関する記載が嘘っぱちかと言われればそうではない。この武公伝は武蔵の剣術の二天一流の師範である豊田正脩が独自に調べ上げた者であり、赤の他人が全く根も葉もないことを書いた訳ではない。だが、それにしても死後何年、何十年も経って書かれてるため、いかんせん信憑性は低い。

   #2へつづく。

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