空想と夢と白日夢

空想対象には地平性はない、故に予想や期待を超えた驚きや失望、志向の当て外れもないという説にごく若い頃から賛同しているが、他方、少なくとも他人の製作したものであれば、虚構の対象には部分的にそれはあるわけだ。虚構の対象といっても言葉で綴られたものから、視聴覚的に表現されたものまで色々あるわけではあるので、やはり一概には言えないとしてもである。他方夢はどうだろうか。夢は多少の屈折を経てまた例外もあるとしても、大筋では願望充足だという古典的なフロイト説を採るならば、やはり大筋ではというか基本的には夢を見る当人の意識を超えた全くの外部性や未知性もないのではないかと思えるが、ここで面白いのは私はいま空想しているのだと自覚しながら空想して空想の対象をあれこれ変様させる営為と異なり、定義上、また個々の体験からも知られる通り夢見においては夢見る当人による意識的な統御が十全に働き得ない点だ。そこから対象のもの性のなさや融通無碍はあるとしても、願望や慾望を充足させてくれる光景や展開に流れるとは限らず、少なくとも一時的にはもしこうだったら、恐ろしい、こわいと脳裏をよぎる展開が含まれてくる点である。夢見る当人にとってそれが不快で苦痛でも、回り回ってはやはり願望充足に寄与するのかどうかの神学論争はセラピストに委ねるとして、例えば夢で塀のうえに猫が横たわっているのを見た、もしかして死んでいるのではないかと近寄ってみたら、というような悪夢の展開や光景も夢見者の作り出しているものだとしても、当人はそれを知らないから少なくとも擬似的な驚きが生じるし、ひょっとして目覚めた後もその不意打ちの印象は継続される。これまで述べてきたことへの例外たり得るものがあるとしたら、夢を見ているのだと気付きながらその状態を継続し、しかも夢見内容を自在に操作しえる例外的な場合であろうか。これは論理のアクロバットの思考実験ではなく実際にしばしば報告されている状態であり、私自身もたまに体験したことがある。逆側から、つまり日中の意識的な空想が夢と境が不明瞭になってしまうケースというのは、白日夢の度が過ぎてそこに嵌り込んでしまう場合であるのかもしれない。

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