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「埋もれた時」〜石神遺跡から水落遺跡へ


石神遺跡の現地説明会のあることを知ったのは、説明会が行われた翌日でした。

「飛鳥時代の『迎賓館』とされる明日香村の石神遺跡で、施設を区画した塀の跡や石組み溝が出土したと奈良文化財研究所が、発表した。今回の調査地は約40年ぶり4度目の発掘。」(2023.3.39読売新聞オンラインより)

「あ、しまった! 行きたかったのに~」

と思いましたが、後の祭りです。

しかし待てよ。それは昨日の今日ですから、まだ現場は埋め戻しされていないはず。ブルーシートの覆いがされてなければ、今からでも遺構を見れるだろう。

てなわけで、現地へ走って行きました。むろんマラソンでじゃありませんよ。

車は農産物直売所の駐車場へ。ここは廃校舎とその廃グランドを利用して営業されてます。駐車場は砂利舗装で、結構広いです。

下写真のパノラマで現在地を指図しますと、赤い星のあたりが駐車場(南限)です。

石神遺跡の迎賓館は、🌟の左の方(北)の建物群全体がそうです。つまり廃校舎とグランドを含む広大なエリアです。

石神遺跡説明板(拡大)


🌟の右の方(南)には飛鳥水落遺跡(後述)もあります。

石神遺跡説明板

今回の発掘現場は、🌟の上の方(東)の一角です。現状は田んぼになります。

さて、あらためて石神遺跡とは? について、説明板から抜粋してご紹介しましょう。

1902年・1903年、明日香村大字飛鳥の「石神」と呼ばれる水田から須弥山石(しゅみせんせき)と石人像(せきじんぞう)が出土しました。(中略)この遺跡は「石神遺跡」と名付けられ、(中略)本格的な調査が実施されることになりました。その結果、飛鳥時代全般にわたる遺構が見つかり、度重なる改造が行われていることが判明しました。
(中略)
すぐ南には時による支配の象徴とされ、日本で初めて時を告げる水時計台跡と考えられる飛鳥水落(あすかみずおち)遺跡が位置することから、日本(倭)の威厳を示し、外国使節に対して服属を確認するための施設であったと考えられています。
(中略)

このように「石神遺跡の遺構は、外国使節に対応するための饗宴の場、いわゆる『迎賓館』であったことが想定されます。」(説明板引用)

石神遺跡方面。正面の低山は天香久山。

1300年の時を経た饗宴の場の「今」は、このように、穏やかな田園です。

石神遺跡の東方。右方に飛鳥寺(安居院)がある。

今回の発掘現場が見えてきました。

奈良文化財研究所は主として都城の発掘調査を担当されているようです
石敷や溝の跡
数次の改造と自然流路跡が重なり、何がなんだか~
地下60センチの世界
奇跡的に遺構が見つかった背景には田んぼであったことが幸いした
この石、どっからもってきたの? 丸い石なので、おそらく飛鳥川の河原石だと推測
発掘は4度にわたって行われた


地下の遺構は、掘り出されても、見ただけでは何もわかりません。わからないのですが、現場に立ってこそ「感じる」ものがあります。今の風景の中に、古代の人とその思いを想像するなどして。

最後に、飛鳥水落遺跡もご紹介します。時を支配することは民を支配すること。その時を刻み知らせるための、日本初の時計台の跡です。

飛鳥水落遺跡説明板

斉明天皇6年(660年)5月、皇太子中大兄皇子(のちの天智天皇)は、日本で初めて水時計を作って人々に時刻を知らせた、と「日本書紀」に書かれています。(説明板引用)

上方の四角の箱の水が細い管を伝い順番に下方へ落ちていくんですね
夕方につき影の漢
飛鳥京は水の都、また石の都でもあった、とは、よくぞ言ったり、と思います(当該地は一例)

天智天皇といえば、滋賀県大津市にある近江神宮(大津京跡)にまつられているのですが、その近くの賃貸に一時期住んでいました。当時、歴史的なことは何も知りませんでしたが、近江神宮の境内に時計館宝物館がありましたので、なんか時計に関係ありそうなやなあ、ぐらいに思っていました。

こうしてみると、いろんなことが、立体的につながってゆきます。
老いを生きるとは、それまでの断片的な経験や思いの一本一本をつないで一枚の布に仕上げることのように思われます。(←キレイにまとめてみました)


2024.3.3