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熊野古道 有間皇子墓

十九歳の有間皇子が絞首刑にされたと伝えられる熊野古道 藤白坂(和歌山県海南市)にお墓があるというので、行ってきました。

熊野古道 藤白坂


有間皇子(640~658)

飛鳥時代、孝徳天皇の皇子。658年斉明天皇が紀伊牟婁温泉に行幸中、蘇我赤兄が天皇の失政三か条を指摘しての扇動にのり、ともにむほんをくわだてることを約したが、かえって赤兄は天皇に密告したため、その一味とともに捕らえられ、紀伊に送られて殺された。原因は父孝徳天皇没後の皇位継承および改新後の中大兄皇子の政治に対する不満であるといわれる。その歌二首が万葉集にある。(むさし書房『人名辞典』より)(歌二首は後掲)

藤白坂を行くと、あった、あったお墓
有間皇子墓 ちっちゃ
人家のお庭ぐらいの広さ
花を盛りキレイにされています



   家にあれば笥に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る

有間皇子が自らの運命を悲しんで詠んだ歌(万葉集)とされています。

飛鳥の宮から護送されてきた有間皇子。私も今日飛鳥(の近く)から来たが、さすが遠かった



[有間皇子神社]

さて、有間皇子墓から、熊野古道藤白坂を歩くこと十分足らずで、有間皇子神社(藤白神社境内)に着きます。(実際は逆ルートで歩いた。)

祭神:有間皇子

有間皇子神社は、藤白神社(藤白王子跡)の境内にある九つの摂末社の一つです。(末社になる?)

傾く墓標
有間皇子神社
「有馬皇子まつり」の記事
万葉時代にタイムスリップ?


   磐代の浜松が枝を引き結び真幸くあらばまた還り見む

意味: 磐白(いはしろ)の浜の松の枝を結んで、幸いにも無事だったら、またここに戻ってきて見よう。

有間皇子が謀反(むほん)の罪で捕らえられ、紀の湯に連行される途中で詠んだ歌とされています。

「藤白のみ坂を越ゆと白たへのわが衣手はぬれたけるかも」

有間皇子は、ほんとうに悲劇のプリンスだったのでしょうか?
中大兄皇子は蘇我赤兄を使い、ほんとうに有間皇子をわなにかけたのでしょうか?

私には真相はわかりません。

ただ、歴史の結果から見れば、中大兄皇子と斉明天皇が為した数々の偉業が、日本国家の礎となったことは間違いないでしょう。それは史跡や古墳や埋文調査、それらの研究によって明らかにされつつあるように思います。

歴史の闇


[藤白神社(藤白王子跡)]

有間皇子神社は、藤白神社の境内にある九つの摂末社の一つでした。(前述)

その藤白神社の主祭神は 饒速日命(にぎはやひのみこと)です。なぜ物部氏の祖先神とされる饒速日命なのかは未調査ですが。

この藤白神社にお参りに来た理由は、有間皇子神社とともに藤白王子(跡)があるとの情報を得ていたからです。

藤白王子は、平安時代から盛んに行われた熊野詣での礼拝所で、熊野九十九王子のうち五躰王子の一として格式の高かった神社でした。

熊野九十九王子のなかでも、かなり名が知られる王子ですよね。

熊野一の鳥居を見落とした笑
若葉若葉の境内
落ち着いた社殿
ひっそりとしておりました
熊野御幸の宿泊所ともなった、と


藤白神社境内では、巨木のクスノキ群に圧倒されました。  

道ばたにひっそりある小さな有間皇子墓に比べることはナンセンスなんでしょうね。

楠巨木
八面六臂


   なにもかも知つておわすか楠若葉     

ならば…

   ほんとうをおしえておくれ楠若葉


空をも隠す楠若葉


藤白王子については、別の機会(テーマ:熊野古道)に取りあげたいと思います。

2024年5月某日