朝熊岳金剛證寺~伊勢紀行3(終章)
[はじめに]
朝熊岳金剛證寺(あさまだけこんごうしょうじ)は、伊勢志摩スカイラインの中間付近の、標高470メートルぐらいの山あいに、広大な寺域をもって、そよとも風の吹かぬ静寂のまにまに、しかしどっしりと存在していました。
さきほどまで遊んだ、強風注意の朝熊山頂展望台から、スカイラインを下ること500メートル。木々に囲まれて、あまり展望はよくないです。
実は、金剛證寺に参るのは初めてかも知れない。
昔に一度は参拝していたとしても、ほぼ記憶にない。
そんな未知のお寺を巡ってきましたので、写真多めでご紹介します。
[1 寺伝]
「本寺の草創は寺伝では欽明朝とし、弘法大師の中興としています。
朝熊(あさま)山(553メートル)はこの近傍では、古くから霊山としてあがめられています。 ※山頂標高555メートルとも
平安末期には、伊勢両大神宮祠官(しかん)を含む幅広い階層からの、埋経信仰にささえられていました。
この霊山信仰はその後祖霊信仰と深くかかわって、この山麓地方は当山奥の院で卒塔婆をたてる信仰習俗となっています。」
(以上説明板より)
説明板の文章から以下のキーワードを拾ってみました。かなり紆余曲折・栄枯盛衰ありそうな寺伝です。
「欽明朝」 ← 欽明天皇といえば仏教伝来(538年?)。相当昔です
「弘法大師」 ← 密教真言? 現在は臨済宗南禅寺派。紆余曲折想起
「朝熊霊山」 ← 山岳信仰? 修験道?
「伊勢両大神」 ← お伊勢さんとのかかわりは?
「祖霊信仰」 ← 庶民信仰? 卒塔婆信仰習俗
「卒塔婆習俗」 ← 奥之院への参道にぎっしりたてられた巨大な卒塔婆!
さて、疑問だからけのまま、境内を一巡しましょう。
[2 堂宇]
金剛證寺は、伊勢神宮の鬼門を守る寺として広く知られている。らしい。
奥之院極楽門をくぐると、道の両側に巨大な卒塔婆がぎっしりたてられています。まるで卒塔婆の林です。否、屏風です。
高さは電柱より高いかも知れない。卒塔婆林の参道は200メートルぐらいあったと思います。なんともシュールでびっくりしました。
(供養のためたてられたものですから、写真は撮っておりません。)
「百日紅ぱつと明るき奥之院」
卒塔婆林を抜けた先に現れた白い庭の百日紅の明るさ、力強さに救われる思い。
[3 虎・牛]
[4 石仏]
国宝・経ヶ峰出土品(国宝)や、木造雨宝童子立像ほか数点の重文ほか寺宝があるようでしたが、先を急ぐ身(急がないけど)、今回はそこいらへんに置かれてあった野の仏様との対面で良しとしました。
野の仏さまの方が(国宝より)親しみが湧いてまいりますのは、根っからがそういう生まれなんだから。
[5 池]
池泉は、本堂から見下ろす境内にありました。そんなに大きくないです。
[むすびに]
最後は仁王門。
出口のはずの仁王門。まだ入口のような気がします。
…というわけで、私にとって謎残る金剛證寺ですが、その謎中で最も興味深いのは、信仰習俗としての卒塔婆林です。
卒塔婆の高さは、大小ありますが電柱ほどのものもあって、それらが隙間なく林立しています。そして卒塔婆の屏風道はおよそ200メートルぐらいあったでしょう。
なぜこんなに巨大なのか?
以下は妄想です。
私は、極楽門と奥之院の間の地形の制約に注目したいと思います。つまり、あの山の急傾斜面では石墓を建てる広い平地が作れません。卒塔婆なら、斜面を少し均せば数多くたてられる道理です。
しかし粗末な(普通の)卒塔婆は数年で朽ちてしまう。また、先祖崇拝の信仰心は、素朴に永く供養の形を残したい。また連年でお参りできるようにしたい。その考案結果が、巨大な卒塔婆ではないかなと。ほんとはどうなのか未調査ですが、いずれにしても、山麓地方(伊勢南部中心地)の人々の信仰心、経済力の大きさが想像できます。
[おまけ]
おしまい
2024.8.16
投稿 8.21