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伊賀紀行3 「芭蕉足跡・生家跡編」


上野城下の赤坂町にあるこの家屋は、芭蕉の父が柘植から移住、兄が受け継ぎ明治の時代まで松尾家が住んでいました。現在の建物は伊賀地方特有の土間の構造から江戸末期のものと推定されています。(生家跡パンフより)

生家跡の裏庭。「玉解く芭蕉」「玉巻く芭蕉」は初夏の季語
矗矗(ちくちく)と苞(ほう)のように固く巻いたまま伸びている(写真右)
それが玉解く、あるい玉巻くのである。見上げるばかりだ



[芭蕉の年表]

1644 伊賀国に生まれる
1656 父松尾与左衛門が亡くなる
1662 藤堂新七郎家の嗣子良忠(俳号蝉吟)に仕える
1666 良忠が亡くなり、奉公をやめる
1672 「貝おほひ」を上野天満宮に奉納する
   このころ江戸に赴く
1676 六月、帰郷し旧友と歌仙を巻く
1677 このころ俳諧宗匠になる
1683 母が亡くなる
1684 「野ざらし紀行」の旅中に帰郷し母の遺髪を拝む
1687 「笈の小文」の旅中に帰郷する
1688 三月、藤堂新七郎良長(探丸)家の花見に招かれ「さまざまのことお 
   もひ出す桜かな」の句を詠む
1689 「奥の細道」の旅を終えて帰郷する
   帰途、「初しぐれ猿も小蓑をほしげ也」の句を詠む
1690 三月、伊賀小川風麦亭で花見「木のもと」に歌仙が成る
1694 五月に帰郷。完成した「奥の細道」を兄半左衛門に贈る
   七月、赤坂の実家での盆会に参列し、「家はみな杖にしら髪の墓参」
   に句を詠む
   八月、新庵で月見の句会を催す
   十月十二日、大阪で亡くなる

                        (生家跡パンフより)


「釣月軒(ちょうげつけん)」。芭蕉はここで「貝おほひ」を執筆したという
江戸から里帰りしたときにもここで過ごしたのだ
釣月軒内部
伊賀地方独特の漆喰
芭蕉翁生家跡の入口(注意! 頭打つよ)
表通りに建つ句碑
「古里や臍のをに泣くとしのくれ」


芭蕉は十二歳のときに父を亡くし、三十九歳のときに母を亡くしている。帰郷して戯れに見せられた自分の臍の緒。(古今のだれもが例外なく懐旧の情を抱くと思うが)このとき「泣く」とまで絶唱する芭蕉さんに人間味を感じる。

「自らを語らなかった芭蕉さんの生涯は、今もなお不透明で難解な部分が沢山あります。例えば、生家の松尾家や先祖の出自についても確たる証拠に乏しく、三十歳頃江戸下りするまでの事歴は皆無といってよいほど資料は希薄です。そうした資料と資料の間をつなぎあわせた、研究や論説は群を抜いて、おびただしい数を数えています。」(芭蕉翁記念館編著 上野市発行『松尾芭蕉』あとがきより)


そうなんですね。ますますほんとはどうなの?と思いつつ、次は上野城内にある「芭蕉翁記念館」へ行こう。


  蒼穹へ玉解く芭蕉風孕む   マサ



 2024.5.26
(2024.5.30記)