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墳活R5-9-14「牽牛子塚(けんごしづか)古墳の八角形」

久しぶりの古墳探訪です。

「牽牛子塚(けんごしづか)古墳」は、明日香村大字越(こし)の山中に所在します。山、というより、丘陵です。谷もあります。

アクセスは、歩く場合、近鉄吉野線飛鳥駅から西へ20分ぐらい。(高低差あり)

車なら、少し離れた「アグリステーション飛鳥」という施設の広場に駐車し(案内看板あり)、そこから山道を10分ぐらいかな。山道に入れば、蜘蛛の巣、イノシシに注意です(笑)

到着です。
でもこの古墳、ずいぶん綺麗過ぎますね。

実はですね、約5年の歳月をかけて、令和4年2月、築造当時の姿に復元整備されたからなのです。

この古墳の存在は、江戸時代から知られていました。書物には「あさがお塚」と記されていたとのことです。墳丘の形が、アサガオの花びらのような多角形であったことから連想されたとのこと。

ちなみに、アサガオのことを「牽牛子(けんごし)」といいますが、その由来は「夜空に牽牛星が現れる七夕の頃、アサガオが咲くから」なのだそうです。(諸説あり)

牽牛星(けんぎゅうせい・ひこぼし)は、わし座の首星です。天の河を渡って織女(しょくじょ・おりひめ)に会いに行くんですね。。つくづくロマンですね。

古墳築造時期は、7世紀後半。形は見てのとおり、八角形をしています。
発掘調査の結果、墓室は2室あることも明らかになりました。

発掘調査後は、墳丘の弱体化に対する恒久保護対策として、補強盛土と外観を復元整備したのだそうです。
今見る外観は凝灰岩の切石が使われています。

現地に行ってみると、切石の表面が白くただれていました。

この理由ですが、石の間または裏に使用したセメントの成分である石灰分が、整備完成後2年経過して、浸透雨水により表面へにじみ出たものかなと思います。最初からこんなだったはずはありませんから。

古墳中央の、南に開口した「刳り抜き式横口式石槨」は、その内部を少しだけ覗くことができます。(木柵には施錠あり)

「刳り抜き式」というのは、一つの巨石を刳り抜いて墓室を造っているからそう呼ぶのでしょう。横口式とは、文字通りなのでしょうね。

木柵の上からのぞき込むと、墓室内には、間仕切り壁があって、二つに分かれています。被葬者は2人なんですね。

石室内等から、当時としては最上級の棺(夾紵棺)片、七宝製亀甲型飾金具、ガラス玉などが出土したそうです。

八角形墳は、実は、畿内では5基しか確認されていません。

 段ノ塚古墳      奈良県桜井市         舒明天皇陵(宮内庁)
 牽牛子塚古墳 奈良県明日香村
 御廟野古墳      京都市山科区           天智天皇陵(宮内庁)
 野口王墓古墳 奈良県明日香村        天武天皇・持統天皇合葬陵(宮内庁)
 中尾山古墳      奈良県明日香村        文武天皇の陵説が有力

天皇陵の八角形の「八」は、天皇を中心に八方あまねく国土を統治するという世界観を現したもので、すなわち八角形墳は天皇が崩御後も国土の中心であることを示したものだそうです。

そこで牽牛子塚古墳ですが、その築造年代(7世紀後半)や、古代の「越智岡(おちのおか)」に所在することなどから、『日本書記』天智天皇6年条に記される「斉明天皇(さいめいてんのう・皇極天皇重祚)」と「間人皇女(はしひとのひめみこ・娘)」が合葬された「小市岡陵(おちのおかのえのみささぎ)」の可能性が高いといわれています。墓室2室あるのはそういうことなんですね。

なお、寄り添うようにあるもう一つの古墳は「越塚御門(こしつかごもん)古墳」といい、大田皇女(おおたのひめみこ・天智天皇の娘・斉明天皇の孫)の墓の蓋然性が高いということです。

現地に設置された模型
寄り添う腰塚御門古墳(下)


牽牛子塚古墳・越塚御門古墳は、標高120mぐらいの丘陵に造られています。今、そこに立って東を望むと、文武天皇陵、高松塚古墳、中尾山古墳、天武・持統合葬陵を望むことができます。(木が邪魔してほんとはよく見えんかったけどね。)

古墳周辺は、綺麗に修景されていますが、ちょっと前までは棚田と畑しかないさみしい場所でした。

1300年間、ひっそりと眠ってきた牽牛子塚古墳と越塚御門古墳。

令和の今、一般見学できるように復元されたことを一定よしとしつつも、一方で、これがほんとの姿なのだろうか、と思ったりもします。

古墳をいかに保存するか。活用との間で難しい問題だと思います。

(参考)
現地案内板(解説)
明日香村教育委員会パンフレット


2023.9.14