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返し切れない/黒田杏子俳句

前回から二ヶ月あいてしまったが、note「黒田杏子俳句」の記事を書こうと思う。

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猛暑の八月も明日で終わり、いよいよ台風のシーズン到来だ。

で、黒田杏子先生の最終句集『八月』を、まったく考えなしにめくった。そのページの一句目が、次のお句だ。


  返し切れないそのご恩青邨忌      黒田杏子


山口青邨氏は、黒田先生が生涯の師と仰いだ俳人である。

山口青邨。昭和五年「夏草」創刊、主宰。
今回はじめて知ったのだが、氏は、工学科(東京大学工学採鉱学科)卒業という。私もエンジニア。親しみを感じる。

さて、このお句の季語である「青邨忌」は、じつは仲冬十二月十五日である。八月ではなかった。
十二月十五日は師走だ。歳末だ。
その慌ただしい日常のなかで、黒田先生は、生涯忘れることのない胸の奥の深い思いを詠まれたのだろう。動と静が絡み合って余情ある。

黒田先生がおっしゃる「返し切れないそのご恩」とは、具体的に何だろう?

そこはご本人(黒田先生)の胸のうちにあるものでわからないが、書かれた文章から想像することはできる。
黒田杏子第一句集『木の椅子』(増補新装版 コールサック社)のあとがきを引用しよう。

長くなるが、噛みしめつつ、文字起こした。

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1957年5月、東京女子大に入学したばかりの私は、郷里の母のすすめに従い、山口青邨先生指導「俳句研究会白塔会」に参加。

「俳句の基本は観察。オブザベーションです」。颯爽たる背広の紳士。
「俳句は詩人です。あなた方は詩人として生きてゆくのです」との言葉に感動。先生に帰依。「夏草」入会。卒業まで句作に打ち込みます。
(中略)
1961年四月、広告会社博報堂入社。ここで句作中止。劇団民藝の文芸部員公募に応じ、評論木下順二『オットーと呼ばれた日本人』で難関突破。

しかし結局共働きの会社員として地道に生きる道を選び、入団を断念。こののちも染織・陶芸その他の表現世界を彷徨ののち、生涯の師山口青邨先生に再入門。

「会社の仕事以外の時間をすべて俳句の勉強に当て、努力いたします」。「いいでしょう。勉強しすぎて死んだという人の話はまだ聞いたことがありません。どうぞ」と先生。

まず「白塔会」に復帰、そして「夏草例会」に復帰。さらに、青邨先生は「帰り新参」の私に、「東大ホトトギス会」をはじめ、先生ご指導のいくつもの句会への参加・出席をおすすめくださいました。ありがたいことでした。

そして、何よりの幸運は「夏草」の兄弟子古舘曹人との遭遇です。文字通り曹人親方の子分となった私は激烈な週二回の連衆句会「木旺会」への参加をはじめ、各地への鍛錬吟行会ほか、あらゆる場所へ曹人さんとご一緒させて頂きました。

「杏子さん。句集を出そう。先生のご許可は頂いた。序句もご染筆下さるとおっしゃった。いい句集になるよ」

そして瀬戸内寂聴先生に「あなたの人生にとって悪くない旅」とお誘い頂き参加させて頂いたはじめての南印度行の日々。ここで私の自然観は根底から一新され、全くの別人に生まれ変わってしまったのでした。

〈自分の生きたいように生きてよい〉〈忖度せず〉〈太陽を仰いで森羅万象と交信〉〈大地を踏みしめ、与えられた生命を完全燃焼〉などと表紙に書きつけた数冊の句帳にはおびただしい俳句が残りました。その中から自選した有季定型の50句をはじめて角川俳句賞に応募。「瑞鳥図」は第25回角川俳句賞の第一次予選通過。私はこの50句のうちから29句を自選、『木の椅子』に収めることを決めました。
(以下略))

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そうかあ。とあらためて思った。

〈生きたいように生きる〉
〈忖度なんてしない〉
〈自然界の森羅万象と交信〉
〈大地を踏みしめ、生命を完全燃焼〉

これはまさしく私の知る黒田先生の後ろ姿(遠くから見ていた)であった。

私も黒田先生から「藍生」への帰り新参を認めて頂いた身。しかし、恥ずかしい限り。持てる時間をすべて俳句に、などという覚悟がなかったから。そして二年が過ぎた。

この状態がずっと続くと思われたのに、昨年、桜咲く頃に黒田杏子主宰はお亡くなりになられてしまった。

私がこのnoteで「黒田杏子俳句」(マガジン有り)を書き綴ろうとしたのは、この機縁からである。

ところが、ながくnoteを書かぬまま、月日が過ぎてしまった。怠惰な自分が恥ずかしい。

ぼちぼちですが、黒田先生。黒田杏子俳句を鑑賞してまいりますのでお許し下さい。



     須坂臥龍山 青邨句碑除幕
     秋天やひとつの石に人集う      黒田杏子

                黒田杏子第一句集『木の椅子』より


「藍生」が解散したあと、黒田杏子先生を師と仰ぐ俳句会がいくつか結成された。黒田先生の「藍生」は同人制をとらず、俳句会一代限りのお考えだったからだ。ただ黒田杏子俳句を継承する人は、おのずとあきらかだった。そのような人が中心になって新たな俳句会が結成された。

私はそのうちの一つ「青麗」に入会した。今年の正月のことである。


2024.8.30