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読書ノート 『わが父 波郷』 石田修大著


ごそごそしていて、二十数年前に書いた読書感想文を見つけた。読み返すと、えっらそうな文章に赤面した。言いたいことの根本は、今もあまり変らないのであるが、情報の追加とかすこし修文とかした方が読みやすいかもしれないと。しかしそれら未熟さをふくめて当時こんなふうに考えていたのか、という観点から基本そのまま公開することにした。自分のための記録のようで恐縮である。
結論が上っ滑りでであり、いつか再読後の感想文で深掘りしたい。で、時期は? 

☆☆☆

著者 石田修大
発行 白水社
読了 00年9月22日

佐渡吟行でのことである。
黒田杏子主宰は、句会で『わが父波郷』を紹介され、こう言われた。

「著者の石田修大氏は大変素晴らしい方で、わたくしはこのご本の宣伝部長(笑)です」

定価二千三百円は、このテの本としては高くないが、一般的には安くもない。要は中味しだいである。

僕は主宰への絶対信が俳句結社のルールだと思っているから、主宰が推薦される『わが父波郷』を、一も二もなく買った。そしてむろん裏切られることはなかった。

本はいたるところに赤鉛筆で傍線が引かれる結果となった。
そのいくつかを抜粋してみる。

・波郷は百姓の子どもで骨太だが、背丈が一八〇センチほどもあって、すらっとした印象の男だった。
・一時期の波郷の飲みっぷりは確かに常軌を逸していた。
・無駄なおしゃべりが嫌いなのは、外でも同じだったようで、大勢を相手にした格式張った挨拶や講演は苦手だった。
・波郷と私の関係は限りなく他人に近かった。
・石田波郷を一言でいえば、俳人であり、病人であったということに尽きる。

横光利一は若い作家たちに次のように言って、句会参加を勧めていたという。

「自意識の毒を俳句で洗い流して、出直さなくてはいかん」

横光は石塚友二の師であった。その石塚は波郷の処女句集を出版した書店主だった。若き波郷は石塚を介し、横光らの文学談義を聞く席に連なっていた。

もう一つ考えさせられる文章(本)を見つけた。

「俳句に含まれている錆びつきやすい伝統の毒に危険を感じたことも確かである」

これは朝日文庫本の『石田波郷集』に寄せた結城昌治の文章の一節である。
結城は二十二歳のとき、結核療養所に入所した。隣室にいたのが波郷だった。波郷三十五歳。この縁で結城は俳句にのめりこむようになる。

しかしやがて、「自分にふさわしい毒を求めて俳句から去った」と結城は書いている。

横光と結城の二つの考え方は、俳句と小説の、のっぴきならぬ関係、根元的な問題が含まれているように思う。

一つは俳句によって純粋をめざすものであり、一つは俳句によって毒される危険である。


☆☆☆

波郷の最後の入院となった東京病院東寮の病室の窓から雪をじいーと眺めて詠まれた一句。

  雪降れり時間の束の降るごとく   波郷

享年五十六。濃く生きた俳人の句だと思う。

2024.9.29