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太子道1 芹摘姫 

もう旬は過ぎましたが、セリはきりたんぽ鍋に欠かせない食材ですね。
きりたんぽを食べていたかどうかはわかりませんが(似たようなのは食べていた?)、田んぼの畦でセリを摘んでいるところを見初められてシンデレラになった女性がいます。

その女性は「芹摘妃(せりつみきさき)」。聖徳太子妃・膳部夫人です。この舞台になった町があるというので、見に行きました。

膳部夫人は、斑鳩地方の豪族膳部氏の出身といわれていますが、ここは斑鳩ではありません。橿原市膳夫(かしわて)ですので、異説ということになるかも知れません。どっちがどっちなんでしょうねえ。さっそく確かめにいきましょう。

橿原市膳夫にやってきました。

南西500mぐらいのところにある香具山を越えれば、すぐに飛鳥(宮)です。

聖徳太子は、斑鳩宮から飛鳥宮へ毎日?通われた(太子道)と伝えられていますから、ここ膳夫町付近をお通りになったはずですね。

太子道が通っていただろうあたりから、現在の膳夫町を望むと、確かに起伏のない低平地が続いています。耕作放棄地?ではヨシ又はススキが生えています。

水を張って一、二年すれば、すぐにセリも群生しそうな地形です。(現在は基盤整備により排水改良されていると思われる。)

膳夫町の鎮守の森が見えます。この森の中に膳夫寺跡があるはずですが、真っ直ぐ行ける道がないので、町を巡りながら、遠回りします。

膳夫町の今は、ちょっと大きめの集落といった規模でしょう。
気付きませんでしたが、もとは環濠集落であったようです。狭く曲がる集落道に古い家並みが続きます。

遠回りしましたが、さっきの鎮守の森のお寺が見えてきました。膳夫寺跡の保寿院(ほじゅいん)です。

ここは、もとは太子自作の虚空蔵菩薩がまつられていた草庵で、天武・持統天皇の時に膳夫寺という大寺になりますが、しかし室町初期に一切を消失。そして跡に建てられたのが、保寿院ということです。

芹摘姫説話
太子27歳の時、斑鳩と飛鳥を往還される途次、太子を送迎せず、畔で芹を摘んでいる一人の娘。聞くと「病母のために摘んでいます。太子様はこれからも送迎できますが、母に芹を食べさせられるのは最後かもしれないと思い、送迎に加わりませんでした」。太子はその娘の孝心に打たれ、斑鳩に召して妃にされたという。(「太子道を往く」岡本精一著より要約)

このお話、どっか似たような説話あったような。
その意味で、フィクションっぽい(笑)

しかしですね、何が事実で何がフィクションなのか、知れば知るほど魑魅魍魎の歴史であるわけですが、それを読み解くことがまた楽しいのだ、という結論であります。

ちなみにわたしは、芹摘姫説話が、政道の規範として語られているように思います。今まさに選挙がヒートアップしておりますが、民の声を聴いてくれそうな候補者に投票します。


2023.4.9


おしまい