広島生まれの私が長崎の平和教育を研究してー卒論完成記念


卒論を書き切った。

テーマは長崎の平和教育
平和教育という手段における原爆体験・記憶の継承についてです。

3回生時のゼミ論では広島の平和教育について、受け手側にインタビューをすることで効果の面を論じました。(再度、協力してくれた人ありがとう)

私が大学に進もうと思ったのは、簡潔にいうとヒロシマを一歩引いた目で見たいと思ったから。ヒロシマの中からヒロシマを見ることの視野の狭さを感じ、思考の発展が望めないと判断したからです。自分なりのヒロシマとの向き合い方を模索することは大学を通じての、また卒論を書く一つの目的でもありました。

3回生で取り組んだ平和教育というテーマが案外面白く、もっとやりたい気持ちが高まったので、卒論でも平和教育を扱うことはすぐに決まりました。

当初は広島、長崎の平和教育について比較研究を行うつもりでした。
長崎単体に絞ったのは、時間的制約もありますが、長崎の資料を集めている際に見た以下の二つの言葉です。長崎を掘りたいと思いました。

長崎の平和教育が本格的に始まったのは1970年、被曝した教師たちによるものです。以下の引用はその端緒となった『沈黙の壁をやぶって』(労働旬報社, 1970)において書かれている教員たちの決起です。

25年間を振り返ってみて、正直なところ私たちは何をしたことであろう。(中略)教師は教壇で、教育で勝負をしようとはよく言われる言葉でありながら、平和の問題や戦争の問題について、あるいは戦争の極限としての原爆の問題についてどれほど真剣に取り組んできたであろうか。(中略)長崎の教師たちも、今こそ沈黙の壁をやぶって、長崎での事実を訴え、証言をくりかえし、子どもたちを再び戦場へ送ることのない教育にとり組む覚悟である。(被爆教師の会, 1970, p.21)
広島のレベルまで背伸びをしようとしたり、焦ったり急いだりして無理な行動に走ってはならないということを戒めあった(被爆教師の会, 1971, p.12)

そんでもってタイトル『沈黙の壁をやぶって』ですよ。熱いんだよなあ。
彼らの試みは長崎行政に阻まれることになります。「偏向教育である」と。
なぜ沈黙していたのか(せざるを得なかったのか)、そこからなぜ打破したのか、行政という障壁がありながらなぜ歩みを進めたのか。原爆体験をどのように語ったのか。
そんなことを研究しました。

後者の引用についてですが。
広島への感情は、私は見ていて一番辛かったです。何ですか、広島のレベルって。背伸びって何?

長崎の面白いところは原爆の語りにおける他者の存在です。
市街地の中心に原爆が投下され、同心円状に市内全域に被害が及んだ広島において、被曝体験はある程度共有されたものでした。
しかし、山間であるという地理的要因から浦上という被差別地域(キリスト教弾圧と部落)に被害が集中し、市街地は比較的難を逃れた長崎(放射能による被害は別です)では広島とは全く違う戦後を歩みます。

広島との比較は結局はちゃんとできてないので、雑観ですが長崎の語りはすごく他者が意識されているように思います。それは長崎の中の他者と、先進的である(と思われていた)広島と。非体験者はもちろんですが。

広島と長崎は同様の文脈では到底述べられないです。
私が論文で扱った1970年代は広島と長崎の連帯が言われるようになった時期でもあります。”広島のように”あろうとする長崎と、広島とは全く違う長崎の状況とのギャップがすごく面白い。

総じていうと長崎にギャップ萌えしたわけです。
とまあ、面白さについて語ると大変なのでこの辺にして。


卒論について結果論からいうと悔しいという感情しかないです。
もっとできたことがあまりにも多すぎる。全く納得のいく形には収められませんでした。
極論、こういうのって納得することはないと思うんですよね。納得しちゃいけないし。ただ今回の場合、自分の中で許容できるある程度のラインも越えられていないという、そこが悔しいです。

ただ、一つ自分を褒めるのであれば長崎を研究したことだと思います。
長崎を研究することで広島の輪郭が見えた感じがありました。

私はこれまで広島を周縁に追いやられた存在だと思っていたんですよね。
でも、被曝体験継承、戦争体験の継承という視点にたてば、むしろ広島は中心にあるものです。

双方の見方が可能だと思います。
しかし、広島の人間だから後者の見方は身につけなくてはならない。私は分かってるようでわかっていませんでした。今回、初めて理解しました。


研究テーマを選ぶ際によく言われることは、自分の1番の関心を選ばないこと。
これはその通りだと思います。2番、3番あたりがやはりちょうどいい。

私はそれを理解しつつ、覚悟して1番の関心を選んだわけです。
卒論執筆中には、それが最も障壁でした。
自分という人間が一番邪魔だった。

もしも、これから自分のテーマを選ぶ人がいるなら、絶対1番の関心は選ぶべきじゃないです。生半可に選んでしまうと地獄を見ると思います。

一歩引いて、じゃあここから何が言えるのかを考える姿勢は私の課題です。


学問という手段を利用して自己主張に徹底すること。
私の文章で被爆者や関係者を傷つけること。

この二つが恐ろしくてたまりませんでした。


所属させていただいたゼミで一番学んだのは謙虚さだと思います。これは学問に対して、研究対象について、他者に対して。色々。

3回生の秋に半年だけお世話になる予定が、1年半もお世話になることができました。
あのゼミだったから、私はヒロシマを語れたと思っています。ゼミ生の皆と一緒に大好きな先生の下で勉強できたことは私の大学生活の1番の誇りです。

別府に帰ってきてからはずっとオンラインだったから、一回は対面で行きたかったな。


卒論という機会はやむおうなしに自分自身と対峙させてくれる機会だと思います。何に自分は心惹かれるのか、惹かれないのか、どんな考え方をしていて、何が見えていないのか。
大学生って殆どが、勉強じゃないことに集中しますよね。私も勉強よりサークルに夢中でした。

最後に突然卒論なんてでかいものぶつけてくるなんて、そう思う人が殆どかもしれないけど、きっとこれは社会に出る前に自分自身に向き合う時間をくれる大学からの最後のプレゼントなんだと思います。
私はまだ社会に出るわけじゃないから分からないけど、こんなに自分に時間が使えることってもう中々ないんじゃないかな。

私はまだ進路が決まっていない身なので(おお焦り)、悠長に振り返っている身ではないのでこの辺で卒論は一旦蓋をしようと思います。
また落ち着いたら、気が向くまで卒論をリバイスしようと思います。




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