私にとってのヒロシマへの罪の意識と責任の果たし方、学問に託すもの

こんにちは。あまり自分の事を書くのは気がすすみませんが、ある方に「そういうのもっと言えるようになった方がいい」と言われたので書きます。とは言いつつ恥ずかしいので、なるほどこういう価値観を形成することもあるんだなという視点で読んでください。テーマは私にとってのヒロシマの咀嚼の仕方です。


 広島に生まれ、広島で育ち、当たり前のように毎年平和学習を受け、8.6には珍しく早起きして黙祷して。そんな私の8.6への価値観を変える出来事が、高校から始めた平和活動でした。別に平和活動に興味があったわけでも、原爆に特別な思い入れがあったわけでもなく、先輩たちが輝いているように見えたから入っただけです。きっかけはそんなもんでしたが、あれよあれよと活動にのめり込んでいきました。毎日、活動が終わって家に帰っても活動関連のことをしてばっか。宿題もせず、成績も下がりながら平和活動にのめり込む娘を、母はよく無言で見守ってくれたと思います。私のやっていた活動は、簡単にいうと核兵器廃絶のための署名活動、被曝証言集録、主に県外の修学旅行生に向けての継承活動でした。なんでのめり込んだかといえば、核廃絶への強い意志が培われたから、とかではなく、多分仕事が好きなタイプの人間だったからだと思います。毎日活動もあって、日々何かに打ち込むのが好きだっただけです。そんな私がヒロシマ自体に思い入れを感じ始めたのはいつだったでしょうか。特段大きなきっかけがあるわけではなく、徐々に芽生えていったのだと思います。いつしか、ヒロシマを伝えること、核廃絶を訴えることに、強い意志を持つようになり、狂ったように活動にのめり込んでいたと思います。国連でお話をさせていただいたり、ラジオに出たり、普段では経験できないこともいろいろ経験をさせていただきました。機会を作ってくださった周りの方や一緒に活動していたメンバーには今でも感謝しかありません。


 そんな中、いつしかこんな疑問が浮かぶようになりました。「なんで核廃絶しないといけないと思ってるんだろう。」街頭で署名活動をする中で出会う人や、県外からの修学旅行生の中には、核廃絶を肯定しない人もいます。そのような人との出会いは、驚きでした。だって、広島では当たり前のことを否定するのだもの。殺人しても良くない?そう言われた感覚と似てると思います。そういった疑問はふつふつ浮かんでいきます。「戦争加害の一面もありながら、特に広島は軍都だったのに、ヒロシマを主張しても良いの?」「新しく証言を収録することばかりで、証言活用されてなくない?」浮かぶたびにその問いを消す言葉を私は知ってます。「だって、被爆者はあんなに辛い経験をしたんだもの。」何度も浮かぶたびに、何度も打ち消して活動を続けてきました。納得したフリでもしなければ、活動を続けることはできないですからね。それは私にとっての生きがいや意志をなくすことであり、これまでを否定することになりますから、怖かったんだと思います。


 活動が落ち着き、受験を期に改めて自分の活動を振り返ってみました。そして、先ほど挙げたような疑問に真っ当な答えを準備できない自分に気づきました。特に核廃絶なんて、政治的な問いです。自分の中で当たり前にその問いの答えが用意されていたこと(検討するプロセスが省かれて)に酷く狼狽しました。そして、怖くなりました。活動をする中で出会った多くの人がいます。私のプレゼンを聞いて、「感動しました!私も学校に帰ったら何かできることがないか探してやってみます!」と言ってくれた修学旅行生の子がいました。実際に有志のメンバーを集めて署名活動をやってくれたり、千羽鶴を折って送ってくれたりしてすごく嬉しかったです。でも一方で怖くなったのは、考えるプロセスもなく私の中にあった主張によって彼女の価値観を作ってしまったのではないか。実際は微々たるものかもしれませんが、自分の言葉の持つ影響、責任の重さを強く自覚しました。



 怖かったと同時に、すごく虚しくなりました。私のしてきたことはなんだったのだろうかと。必死に頑張ってきたことは無意味だったのではないか。証言収録の中で多くの被爆者の方が共通しておっしゃることがあります。「ありがとう」と「もう二度と自分と同じような経験をして欲しくない、この思いを託しました」
 個人的な価値観ですが証言収録って、他人のトラウマを根掘り葉掘り穿り返すことだと私は思っています。もちろん合意の上での収録ですし、心理学的にみて証言の聞き取りが心理的トラウマに対する慰安の役割をなすことも知っています。でも、究極的には私は被爆者の気持ちを完全に理解できないのです。だからこそ、被爆者の方を傷つける質問や、深追いされる準備がない部分を無意識のうちに追求し傷付けてしまった事も、表に出にくいだけで多かったと思います。だからこそ、私にとって「託します」という言葉は、その言葉に答えることが、そのような業に対する償い、責任の取り方だと考えていました。私なりに、この責任に向き合い生きていこうと思ってはいたものの、これまでのやり方ではそれができず、複雑な気持ちの中話してくださった被爆者の方に申し訳なさを感じずにはいられませんでした。加えて、いろいろな機会を与えていただいた分仲間や、周囲に対する罪悪感も大きくありました。


 自分が放ってきた言葉と被爆者に対して、この二つの罪は、重くのしかかりました。そして私は逃げたのです。大学に入ってからは、ヒロシマとは全く関係ない学問や取り組みにのめり込みました。ヒロシマのことは変わらず大事だったけど、どう向き合っていいのかわからなかったんですね。大学に入ってすぐ、高校時代何していた?という会話の中で軽く自分のしていたことを話したのちに、何気ない言葉だった思いますが、「核廃絶なんてできるわけないでしょ〜」と笑いながら言われたことが、情けない話ですが、引きずってしまい(高校時代の私なら蹴飛ばしてましたが、当時の迷っていた私にはそれができませんでした、その人を非難する意図はないです、タイミングの話)、広島のことを話すのも躊躇され、人を選んでしか話さないようになりました。そうして数年が経ちます。


 昨年、私にとって大きな出会いがありました。メディア研究をされていて、広島の研究もされている先生の書籍と出会いました。初めて読んだ時、感動して涙が出たのを覚えています。言葉がスッと入ってくるのです。語られなかったこと、見えなくなってるものを巧みに書き出す有様はある意味、私を慰安してくれたのだと思います。たまたま通っている大学の系列校にお勤めの先生でした。運命だと思いました笑。留学制度を用いて先生の学校に行けることになったので、無心で飛び込み、先生のゼミに所属しました。すごくたくさんのことを学びました。その中でもよく先生がおっしゃるのが、「今新しく証言を蓄積することも重要だが、過去の蓄積に目を向ける必要性もまたある」「語ることによって、何が見えづらくなっているのか」この2つの言葉は特に影響されました。そうして、私にできるのは被爆者の言葉と徹底的に向き合うことであると徐々に思い始めたのです。


 先ほど「託した」という被爆者の言葉の話をしましたが、これは文脈上、核兵器のない平和な世界を作るという意味合いになると思います。しかし、これは私にはできません。ある種、気持ちを割り切って核廃絶を主張することは私にはできません。継承活動も同じです。今の私にはどちらもできません。だから、根源的には被爆者の方の言葉にはそぐわないかもしれないけど、「被爆者が語れなかったヒロシマを見る」これが私にでもできること、私にできる責任の果し方だと思うようになりました。そう思うようになった背景には、証言収録のなかで、喋りたくても言葉に詰まってしまう姿や、途中で証言をストップせざるを得ない状況になった姿を見てきたことが大きく影響していると思います。むしろ、語れなかったことがその人の根幹なんじゃないか、と。でもこれっておこがましいし、怖いことでもありますよね。証言自体の根幹となる部分を変えるみたいで。なおかつ、誰しもある言いたくないことを暴いているようで、それこそトラウマを穿り返しているようにも思えます。何様?って話です。そういうことは学問であってもやってはいけないことだと思います。被曝証言を分析して言えなかったことを見出す、そんな研究がしたいわけではありませんが、やり方によってはこうなってしまうリスクも抱擁しているため、この点は慎重に悩んでいます。今の所の考えですが、心理学だったらやっちゃダメかもしれません。でも社会学ならいいんじゃないでしょうか。まあ、まだまだ悩みます。これからはこの点に頭を悩ませ、葛藤する日々を送っていくのだと思います。でも、ようやく進むことができました。


 以上、長くなってしましましたが私なりの責任の取り方です。こういう言い方をするとかつての活動を恥だったと思っているのかと誤解されそうですね。恥ではないです。今だからこそ、あの日々は無意味でないと思っています。ただ罪の意識と責任を感じるところもあるっていう話です。


 広島を知った人の多くが、「知ってどうしたらいいんだろう、伝えることが大事ってよくいうけどそれだけなのか」と言いますね。私の選択はある意味その言葉に答えれるものだと思います。真正面からじゃなくても、その人にあった道のあり方があるんじゃないでしょうか。


相変わらず、おどおどしながら言葉を書いてますが、最近は少しずつ話してみようという気にもなってます。話さなければ議論も始まらないですからね。

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