少しだけ正義を作りすぎた、と言われたら受け入れられるだろうか
違うものが何故違うのかを考えるのは難しいけど不可能ではない。しかし、違うものは違うものとして認識するに留めて排除してしまう方が簡単だ。何故なら「何故違うのか」を考えなくて済むからだ。脳は膨大なエネルギーを消費しているから、自然とエネルギーの消耗を抑えようとする。
だから、その排除はある意味人間として当たり前の機能なのだ。ただし、そこに対して無意識であり続けることをどう受け止めるか。ある日突然意識的になるのは大いに結構だが、それまでの無意識を反省することを同時にしないと、一時的なものとして終わってしまう。
違うものこそ対話が必要だ。不便な対話が脳のエネルギー消費量を増やす。それこそが人間的な営みだと思う。そのエネルギーが違いの原因を暴き、また世界が広がっていく。人間は世界とそうやって向き合ってきたのではないだろうか。知らぬ間にエネルギーを抑えてデフォルトモードネットワークのみで生きていやしないだろうか。
そんなことを考えていたら、こんなものを見つけた。
life among people
活動家の若者を見て
老人は呟く
「何やってんだ若僧が」と
活動家の老人を見て
若者は呟く
「何やってんだロートルが」と
目的もなく
ただそれが嫌なだけ
車内で喚き散らす学生を見て
オバサンは呟く
「何て非常識なんだ」と
車内で喚き散らすオバサンを見て
学生は呟く
「何て非常識なんだ」と
理由は見ない
ただそいつと違うだけ
「ごめんね、ただ、少しだけ
正義を作りすぎた」
ごめんね、ただ、それを受け容れる
私を作れない
特に理由などない
ただ嫌いになるために
嫌いなところを見つけたがる
特に理由などない
ただ防御するために
攻撃目標探している
歳は違えど
才は違わないのよ
「ごめんね、ただ、少しだけ
感情を作りすぎた」
ごめんね、ただ、それを使い熟す
日々を作れない
「いつか示した、歴史とか
思想とか哲学とか
泡のようなlifeの中で
大勢の一部に」
「ごめんね、ただ、少しだけ
正義を作りすぎた」
ごめんね、ただ、それに気付けない
生活をしてるだけ
ごめんね、ただ、少しだけ
怖かったりするの
だけどね、また、笑おうとするんだ
そういうもんなんだ
なるほど、的を射ているものもあれば、なんか少し物足りないフワッと感も感じる。でも、正義はたくさんある。自分とは違う正義と向き合ったときに、無意識的に脳のエネルギー消費を抑えて向き合うことを拒むか、意識的にエネルギーを消費して向き合うか。
頭でわかっていることですら、実現できるとは限らない。ましてや頭の中で想定していないことなら尚更。そして何を想定していて、何をわかっていないかは人による。それを「自分の想定と違う」というだけで排除の対象にしてしまうのは非常に短絡的だ。
それでもなんとか生きているわけなので、もう少し頭を柔軟に使うことを意識していく。
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