2023年を迎えて
麗らかなる日差しを横目に、新年の実感を置き去りにしたままの日々を過ごしている。僕の心は西暦何年で氷漬けされているのだろう。今年もよろしくお願いします。
寄せては返す波は何か大きな力によって引き起こされ、ただ漫然と逆らわずに行ったり来たりしているようである。時に大きく時に小さく、ただ波は波としての存在を止めるために波であるのかと思う。しかし一つ一つの波は砂地を削り、海面の漂流物を漂着物へと変化させていく。
繰り返しに意味を見出そうと思えばいくらでも見出せるだろうし、無駄だと思えばいくらでも無駄に思える。日々の色付けの支配権はその手の中にある。それだけで十分じゃないかと思う時もある。
新年の抱負として「新しいことにチャレンジする」なんてことはない。去年仕事を辞めた時点で訪れる現実は全て新しいことばかり。その一つ一つを一々「チャレンジ」だなんて形容していたら身がもたない。仕方ないからやってんだよ。
1/1〜1/4が24時間しかなかった気さえする。断片的な記憶を繋ぎ合わせて2023年も終わっていくのだろう。どうせ12ヶ月後には「今年あっという間だったね」「時間が経つの早いな」というクソどうでもいい会話をしているのかもしれない。
本質的でないことはどうでもいいし、本質的であってもどうでもいい。ただ、どうでもよくないことは本質的なことに隠れている。執着心は基本的に本質的ではない。どうでもいいことに執着することほど無駄なことはない。
愛すべき無駄と蔑むべき無駄とある。その時に愛すべきか蔑むべきかの判断が下せるほど優秀ではない。ただ、無駄を愛せないことには何も愛せないのかもしれない。無駄を知っててサボるのと無駄を知らないでサボるのでは、サボりの効率が違う。
悩みの全てが努力で解決できると思わないが、悩みがあれば努力での解決を試みないこともない。ここが無駄を知っているかいないかの差の現れだと思う。無邪気に「努力は嘘をつかない」と言うのは残酷だ。マグマに耐える努力は必ず裏切るぞ。
欲望を持ち、執着し、諦め、捨てて、その中で辛うじて身につくものがあるならば、それが合ってるんだろう。欲望に気付かず、執着に気付かなければ、諦めることも捨てることも出来ない。そんな奴が成長を語るなと思う。
心についた贅肉を削ぎ落として洗練させるには、まずは贅肉をつけなければいけない。ぶくぶくと太らせてからが本番だ。
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