和ジャズはやっと動き出したかも

2018年秋。新宿Pit Innでは、若き天才ドラマー石若駿の3days、昼夜続けて6公演が開催されていた。6公演は全て異なったメンバーによるセットで、彼の活躍分野の広さを存分に堪能できるプログラムになっていた。その初日に登場したのがアルトサックス奏者の松丸契。駿がYoutubeで発見し、SNSで誘った新人だ。松丸は宣教師の父親とともにパプアニューギニアで育ち、ほとんど独学で音楽を学んだ後、奨学金を得てバークリーに留学している。親が帰国したのを機に日本で活動を始めようとしていた。ベーシストは、オーストラリアから来日して大活躍しているマーティ・ホロベック、ギターには、Pit Innでアルバイトをしながら感性を育て、スガ・ダイローのユニットに参加し始めた気鋭の細井徳太郎。

ステージ上の絵面は、とにかく若い。そして繰り出される音は、驚愕するばかりの新鮮さだった。クールの塊。これまで、日本のジャズシーンには無かった、爽やかで変幻自在、自由を自在にハンドリングするバランス。どちらかと言えば感情より風景、それでいて淡白ではなく、堪能できる充実もある。それは、彼らの高い演奏技術とインスピレーションのセンスの賜物だった。

あ、始まった。と感じた。私たちと、それに先立つ世代が格闘してきたあれこれの成果を、今やっと彼らが手にしている。

和ジャズはついに動き出した。

昭和50年、西暦1975年が私のジャズ仕事始め。

それに先立つ2年前に大学ジャズ研に入り、アメリカ帰りの先輩からたくさんのLPを聴かせてもらいつつ、文化祭のステージ目指して英語歌詞を覚える毎日。アマチュアの演奏とはいえ、今振り返っても相当なレベルの仲間が揃っていた。幸運だったのは、学校が授業の合間にいくらでもジャズが聴ける吉祥寺という街に在ったこと。あちこちの店に通って、最先端のサウンドに聴き入り、ついでにリズム・ビートの練習に明け暮れる。

最初に演奏の機会を与えてくれたライブハウス、サムタイムは、学生にも演奏の機会を与えていた。当時は予想もしなかったが、この店は現在の日本のジャズシーンに、大変な数の人材を送り出している。盛り場のジャズクラブのように大人の接待の場ではなく、しかし、ピットインのように演奏のみを聴かせる店でもない。多分、ニューヨークのジャズクラブなどに近い、初めての店だったように思う。毎日、45分の演奏を4ステージ。いくらかチャレンジングなことをしても構わないという空気。その寛大さに育まれ、同時期に演奏仕事を始めた同世代のピアニストやベーシストたちは切磋琢磨、どんどんと腕を上げた。

彼らはすぐに先輩ミュージシャンたちにも認められ、都内の多くの店に進出した。そして、歌手たちにもたくさんの店の仕事を紹介してくれた。私も、学生でありながら歌舞伎町や銀座、六本木などに歌いに通う毎日が始まった。当時は、どんな店にもたくさんの客がいた。現在のように、ミュージシヤンが集客するなんて、想像すらしたことがなかった。そして、ジヤズという音楽の存在価値は、今とはかなり異なった様相を呈していた。

ジャズ・ミュージックは、戦後文化のひとつの象徴だった。戦勝国アメリカの音楽であること、演奏技術が高いこと、音楽理論が難しいこと、背景に公民権運動なども潜んでいたこと。そしてそのように存在するジャズを愛し、語る多くの文化人や評論家たち。それらの全てが、かつてこの国には一度も存在しなかったものだった。文化を取り入れ、研鑽し、自己のものとする。その希望と熱気が新宿という街を中心に渦巻いていた。メディアが続々と生まれてそれらを支持した。

加えて、新しいサウンドが次々に押し寄せた。休む間も無く、新しい波を捉え、取り入れて真似る日々。けれど、それはやはり敗戦によって植民地化された国にありがちな、憧れと、負けてる意識からの卑屈さに息苦しさを感じる行為でもあった。

それから半世紀近くが経って、日本のジャズは自立し始めている。海外で学ぶ機会を多く持つ若いミュージシャンたちにとってこの音楽は、ルーツが何であれ、すでにワールドワイドに定着したスタイルとなっている。若者たちは、しっかりと基礎を学んで臆することなく、そしてジャンルにも拘らず、全く新しい感性でのびのびと活動し始めている。

石若駿の周囲のように、20代の「アーティスト」と呼びたいミュージシヤンたちが、SNSで出会い、何の躊躇もなく始めたユニットを聴いて、私は、時代がクリアに変わったのを知った。それは、本当に気持ちの良い音楽だった。何かの真似ではなく、自然に自分の中から出るサウンドを、自由に紡ぎ、語り合う音楽。即興を含むからジャズなのだが、どのジャンルに組み込んでも成立しそうな音楽性。

自分の子供たちよりもっと若い彼らの音楽を聴いたお陰で、私は、自分を縛っていた時代の枷のようなものを捨て去ることができる気がした。当然ながら、私が生きた時代にした行為は変えようもないが、今、新しいものが出てきてくれたお陰で、それを肯定することができるのだ。

この気持ちをどう説明したら良いものか、まだ決定的な言葉はないが、ひとつ言えるとすれば、足掻いていた風に見えたかもしれないが、とにかく私たちは進み続けていた、という感触だ。自分の世代がしていたことの先にこのような成果を見たことが、私にとっての希望となった。そして、このままやり続けていいのだという確信にもなっている。

少なくとも、ジャズを続けようという人々は、この上なく努力している。技術面でも精神面でも。そういう風にしか生きられない人々を見ながら共に歩んでいることに、ちょっと感動する。

(石若駿の最初のレコーディングは、まだ彼が芸高に入学したての頃。私の主催するスタジオ・トライブレコーズ制作の『月夜の旅』である)

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