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よねこさんのこと。

昨日、仕事納めをしました。但木です。
仕事納めはPitchFMの生放送でした。今年もラジオを聞いてくださったみなさまに感謝!リスナーのみんなに支えてもらった1年でした。

昨日、番組の中でもちらっと話せたことで書いてみようと思いnoteを開きました。いろいろ書きたいことシリーズが書けていないまますみません。これはもう一生謝り続けながら書きたいことを書く但木でいそうです。

タイトルにもしました。突然のお名前登場に困惑のみなさま。お許しを。
よねこさんのことを書こうと思います。

よねこさんの本当の名前は「よね」さんです。でも、たくさんいる兄弟姉妹の中で「こ」がついていない女の子は自分だけだったそうです。だから、よねこさんは自分で自分の名前に「こ」をつけていました。お手紙にはいつも「よねこより」と書いてありました。

よねこさんは、祖母のお姉さんです。よねこさん夫婦には子供がいないので、私の母を娘のように。私のことを孫のように可愛がってくれていました。小さい頃からよねこさんとの思い出はたくさんあります。というのも、私の祖母は80歳を過ぎる今もなお現役バリバリ働きおばあちゃんです。若い時はもっといけいけ。祖母と遊びに行ったり一緒にご飯を食べたりという機会があまりなくて。
その分、というのもおかしな話だけど。よねこさんと遊びに行ったりご飯を食べたりした思い出がたくさんあります。

よねこさんとの思い出を少し書いてみます。
小学生低学年の頃に母が体調を崩して寝込んだことがありました。父は仕事が忙しく家を空けることも多く、祖母も仕事があります。
そんな時に、よねこさんが助けに来てくれました。学校が終わると、今日はよねこさんが家にいる!と母の体調不良のことなんてすっかり忘れ(母ごめん)重たいランドセルを背負いながらも一生懸命に走って帰りました。学校から帰って自分の家によねこさんがいることが嬉しくてたまらなかったのです。よねこさんはにこにこで「おかえりなさい」と迎えてくれました。「学校ばどうでしたか?」「どんなお勉強をしたの?」たくさんたくさん話を聞いてくれるよねこさんでした。それが嬉しくて、キッチンで夜ご飯の支度をしているよねこさんの隣をちょろちょろ。
母に「夜ご飯なに?」と聞くと「冷蔵庫にあるもの!」と言われる我が家でしたが、よねこさんは違いました。(母なんだかごめん)
「夜ご飯なに?」と聞くと「今日はね、このひき肉と、玉ねぎを炒めたものをここに入れて、卵とパン粉とあれとこれを混ぜて焼いてね。そうするとハンバーグができるでしょ。そしてね、お野菜はあれとこれがあるから、こうしてああして…」とレストランのシェフ並みの丁寧さで教えてくれました。ゆっくり丁寧に話をするのがよねこさんです。
よねこさんは三河で生まれながらも東京に働きに出ていて、穏やかな性格も相まってそれはそれはお上品なのです。朝ドラに出てくる優しい貴婦人をイメージしていただけたら。
子供はキッチンをちょろちょろすると怒られるものだけど、よねこさんは怒りません。「これ混ぜてくれる?」「これを入れてくれる?」そう言いながらお手伝いをさせてくれます。
よねこさんに学んだことはすごく多くて、ハンバーグのソースやドレッシング。昔ながらのシンプルな調味料を混ぜ合わせるだけのものですが、それがすごく美味しくて。一緒に作らせてもらえたことも嬉しかったです。

よねこさんから学んだことは、ご飯だけではありません。洋服の畳み方、お花の水やり、冷たい牛乳を飲むとお腹が痛くなってしまうこと、500円玉が2枚で1枚のお札と同じになること。母から教わること、祖母から教わること、そしてよねこさんから教わること。
わたしにとって特別な存在のよねこさんでした。

そんなよねこさんはもともと身体が丈夫ではなかったようで、入退院を繰り返していました。
一番古い記憶で覚えているのは、よねこさんが入院してしまった!と母とお見舞いに行った時のことです。なんの病気なのか、どういう状態なのか子供の私にはさっぱりわかりませんでしたが心のざわざわは覚えています。病棟と病棟を繋ぐ長い廊下、日の当たる病室。病室でよねこさんの顔を見て、いつものよねこさんだ!と駆け寄った気がします。よねこさんはベッドに座っていました。にこにこで迎えてくれました。でも、言葉が出てこなかったのです。私の名前が出てこなくて「ごめんなさいね。わかるのよ。わかるの。えっと…」私はよねこさんが私のことを忘れてしまったと思って悲しくてたまりませんでした。母は「みくだよ!みく!」と悲しい顔をせずに明るく振る舞っていました。よねこさんは「そう、みくちゃん。ごめんなさいね。すっと出てこなくて…」と私以上に悲しそうでした。ベッドの机にはひらがなの練習帳のようなもの、子供の勉強で使うものが置いてありました。

後から聞いた話では、よねこさんは病気が原因の何かでたくさんのことを忘れてしまったようです。だから私の名前が出てこなかったのかと安心したことを覚えています。会話はいつも以上にゆっくりだったけど「もうすっかり元気なのよ」と、長い廊下を一緒に歩いてエレベーターに乗るところまで送ってくれました。
ゆっくりゆっくり、いつも以上にゆっくりのよねこさんに早く元気になりますようにと強く思ったことがよねこさんの入院の記憶で一番古いものです。

その後、よねこさんの家に行くと文字を書く練習をしていましたが気が付いたら全部元に戻っていたように感じます。あれ以来、私の名前が出てこなかったことも一度もないです。

そこからはたくさん。たくさんたくさん思い出もあって。元気なよねこさんとの思い出もたくさんなのですが。

やっぱり忘れられないのは何度も何度も「もうダメかもしれない」と言われたよねこさんの姿です。その度に、よねこさんが死んじゃうはずないんだ!とお手紙を書いたりお見舞いに行ったり。
でも、よねこさんは当たり前のように家に帰ってきてくれます。だから、よねこさんが一番最強なのではとこっそり思っていました。

私が免許をとって車に乗るようになってからすぐによねこさんが入院したこともありました。あの時はいつもと空気が違って、親族がわらわらと病室にかけつけていました。みんなが寝ているよねこさんの手を握り、お別れを告げに来てるみたいですごく怖かったことも覚えています。ベッドの横にある機械の音にもビクビクしていました。私も毎日病院に通って、なんの役にも立たない中病室には居座り続けました。
もちろん、よねこさんは生還。やっぱり最強でした。


ラジオのリポーターとしてデビューした2013年。初めてのラジオのお給料はランチ1人分あるかなどうかなくらいでした。そのお給料を握りしめて、父でも母でも祖父母でもなく(父母祖父母ごめんなさい)よねこさんとランチに行きました。
よねこさんに初めてご馳走することができました。「自分がやりたいと思った仕事で頂いた初めてのお給料は、よねこさんにご馳走したかったの。いつもありがとう。」私は半分泣きながらそう伝え、よねこさんは「あらまぁ、嬉しいわ」とぽろぽろ涙を流して喜んでくれました。あの時のランチ美味しかったな。あの時の卵焼きの味、一生忘れないです。

そんなラジオデビューのタイミングで三河に越してきました。よねこさんのいる安城市に。よねこさんの家には通いまくりの日々でした。ラジオパーソナリティとしてデビューさせていただいてすぐの頃、前日に資料を取りに局へ行きそのままよねこさんの家に行き明日の準備。よねこさんはいつもヤクルトを飲ませてくれました。あと、チョコレート。ちょっと合わないけどそれが嬉しかった。

そして、生放送を終えた後もよねこさんの家に駆け込んでいました。うまくいかなかった。上手に喋れなかった、失敗した、怒られた、私は向いてないんだ・・・と毎週泣いていました。その都度、よねこさんは「まだ始めたばかりだもの」「来週はうまくできるんじゃないかしら」と優しい言葉をたくさんたくさんかけてくれました。デビューしてすぐのあの時期、踏ん張れたのはよねこさんのおかげです。

ラジオが慣れた頃、番組後に行くことはなくなったけどお休みの日はお茶をしに行ったりご飯を食べたり。よねこさんの家の畑でとれる季節ごとの野菜を分けてくれたりもしました。
よねこさんは洋裁のお仕事をしていたのでボタンが取れただの、裾が長いだの、ここがほつれただの。よねこさんの家に駆け込むことは、変わらずでした。
洋服を作る仕事をしていたよねこさんの仕事は丁寧で、いつも新品のように直してくれました。「明日のMCで使うパンツが思ったより長い!どうしよう!」と駆け込んだこともあります。よねこさんは「もっと早く確認しないとダメよ、驚いちゃうわよ」と言いながら直してくれました。

頼っていたのは洋服のお直しだけではありません。家族のこと友人のこと仕事のこと、悩んだことを聞いてくれていたのがよねこさんでした。
よねこさんが入院するたびに「よねこさんがいなかったら私は誰に話を聞いてもえばいいんだ」と伝えていました。その度に「あら、そう?」と笑ってくれました。今まで何度泣いて電話したか。何度泣いて家に行ったか。いつも受け入れてくれて、どんな時も味方でいてくれました。よねこさんが私を否定したことは一度もありませんでした。よねこさんは優しいから、その優しさにずっとずっと甘えていました。

私がよねこさんに甘えている間、よねこさんは時々入院したりもしたけど、その都度生還。やっぱり最強なのです。

よねこさん最強説は止まりませんでした。親戚の中では「なんだかんだでよねこさんが一番長生きするよね!」と話題にもなっていました。(主に私と母と祖母)

ここまでよねこさんへの甘えたエピソード満載でしたが。
ここ数年。年々会いに行く回数が減っていきました。仕事が忙しいとかそんなことではなくて。なんだかいい報告ができないことが情けなくなってきて。私は仕事で大成功を収めているわけでもないし、心配かけてしまうことの方が多かったから。こんな仕事が決まったよとか、こんなお仕事したよとか、かっこつけたくなってしまい。それゆえに、連絡する回数も減っていました。

コロナ禍に入る前くらいだったかな。私も仕事が少しうまく行くようになり「うなぎをごちそうする!」と約束をしました。でも、コロナ禍で外出はできず。身体が弱いよねこさんは絶対にコロナになってはいけないと本人はもちろん周りはみんな思っていました。厳重体制でした。
私はいろんな人と会う仕事なので、より会いに行けなくなりました。それでも時々電話をして、見えない先の約束ばかりが増えていきました。

だんだんと世の中が外出できるようになってから…なってから何回会えたんだろう。記憶がふわふわしています。

よねこさんはコロナではないけど少しずつ体調が崩れていたようで、弱っているという話を親戚を通して聞いていました。今年のお正月に会いに行った時も、すごく辛そうで。杖を使って歩いていて。食欲もないと言っていました。それじゃあ今度、よねこさんの食べたいものを買ってくるね!と約束をしました。

その後にまた入院して、施設に入って、あっという間に環境が変わってしまいました。それでもよねこさんは絶対に帰ってくると思っていて。すぐ会いに行くことをしませんでした。

入院した時病院の決まりでお見舞いに行けなかったけど、施設は面会できるとのことでした。施設に会いに行こうと施設の場所を聞いたり行っていい時間を確認していた春先。よねこさんの体調がすぐれないと聞き、すぐ会いに行きました。その時には会話ができなくて。表情でなんとなくお話がきるかな、くらいでした。でも、またご飯が食べられるようになれば元気になるんじゃないかななんて思っていました。
その日も、施設に泊まる?どうする?なんて親戚のみんなで話していたけど、ここから回復に向かって看病が長くなる可能性もあるから今日のところは帰ろうかとなり私も家に帰りました。

翌日の朝、ずっとよねこさんのお世話をしてくれていた叔母から連絡が入りました。そこには「危ない状態」と書いてありました。私はそれを見ても慌てることもなくて。
だってよねこさんは絶対に帰ってくるから。最強だから。
「連絡ありがとう!早めに向かいます!叔母さんは何時からいる?」なんて呑気な返事をしました。

その30分後。
「お亡くなりになりました」と連絡がきました。
そこからはよく覚えていないけど、急いで施設に向かって。泣いて泣いて泣いて。ごめんなさいが止まらなくて。なんでなんでって。今まで絶対に帰ってきてたのにって。なんで私は会いにこなかったのって。そればっかり。

でも、すぐにやらないといけないことがたくさんあって。泣いている暇がないほどにやらないといけないことをたくさん探しました。
よねこさんの最後に着るお洋服を選んだり。みんなでお手紙を書いたり。お通夜の夜は、親戚のお姉ちゃんと葬儀場に泊まったり。
ゆっくり過ごしたいはずの最後は、まるで早送りの3日間でした。

亡くなってから、施設の記録を見せてもらいました。数日分のスタッフさんのメモ書きには何を食べたとか、体重の記録とか、その日の様子とか、どんな話をしたかなんてことも丁寧に書いてくださっていました。
施設に入って数日経った日の記録に「寂しいと話をしていました」とありました。
ここ数年、病院も施設も身内1人しか入れない決まりのようなものがあったから、よねこさんは一人の時間が多くてずっと寂しかったんだと知りました。

亡くなる前に会いに行けたのに。施設に会いに行けたのに。私は行かなかったんです。自分の都合で、忙しかったなんてことなくて、絶対に時間はあったのに。行かなかったんです。寂しい思いをさせてしまいました。

毎日毎日、ごめんなさいって思っていました。何もお返しができなくてごめんなさい。心配かけてばかりでごめんなさい。キラキラした姿を見せてあげられなくてごめんなさい。あんなに可愛がってもらったのに、無償の愛をくれたのに、助けてくれたのに、支えてくれたのに、私は何もできませんでした。ごめんなさい。
よねこさんとお別れしてから数ヶ月、私はどんな気持ちで過ごしていたんだろう。どうしたって記憶がふわふわしています。でも、記憶がふわふわしているけど、私自身その日その日を一生懸命生きていたことは間違いないです。だから、今があるとも思えます。

毎日毎日、ごめんなさいを思っていた私に「ごめんなさいをありがとうに変えたらよねこさんは喜ぶと思うよ」と言ってくださった方がいます。ありがとうに変えながら、よねこさんに、もう会えない現実を受け入れていこうと思いました。

今思えば。最後に入院する少し前…だったかな。
よねこさんから電話がありました。いつもの優しい口調で「もしもし、よねこです」って。
でも、いつも通りのはずのよねこさんが「あのね、あなたにはね、本当に感謝しているのよ」なんて話を始めたのです。突然そんなこと言うから驚いて「急になに!お別れみたいじゃん!やめてよー」と、うるうるしてしまったことがバレないように笑いながら答えました。
よねこさんはいつも、私が笑うと笑ってくれるのですがその時は少し違って「本当に、感謝してるの。ありがとうって思っているのよ。」って何度も言うんです。あぁ、ダメだ。なんだかすごく泣けてしまう。そう思いながら「私の方こそありがとうだよ、まだ何もお返しができていないからね。うなぎ食べに行く約束してたの暖かくなったら行こうよ!」と泣いていることがバレないように元気に伝えました。
よねこさんは少し笑って「そうね、楽しみにしてるわ」と言ってくれました。
これが最後の会話になってしまいました。

よねこさんは私にありがとうを伝えてくれました。私の方がありがとうなのに。あの時、なんであのタイミングでそんなことを伝えてくれたかわからないけどあの時のありがとうは一生忘れません。私もよねこさんにありがとうを思い続けようと思います。

自分の気持ちを整理するために、自分自身が前を向くために勢いよく書きました。読んでくださった方が大切な誰かを思い出したり、今側にいる大事な人を大事にしようって思っていただけたらいいなとも思います。

最後に、よねこさんへって書くこともまだできないほどだけど。まだまだ時間はかかるけど、ゆっくり向き合っていきます。

ラジオでも伝えたんだけど、毎日毎日泣いて泣いて悲しくてっていう時でも木曜日があったから今日までこれたと思っています。リスナーのみんなが待っていてくれたから。リスナーのみんなとのまた来週って約束が支えでした。居場所を作ってくれてありがとう。楽しい時間を過ごさせてくれてありがとう。いつもありがとうって思っているけど、今年は特に。本当に助けてもらいました。

来年もまた、一緒に楽しい時間を過ごしていけたら嬉しいです。言いたいこと言っちゃう私だけど、みんなと向き合いすぎちゃうわたしだけど、来年もよろしくねお願いします!と、言いながら年明け一発目の生放送お休みさせていただくんだーーー!ごめんーーー!この流れでーーー!まさかのーー!!!!(遊びに行くんじゃないんだ、お仕事なんだ、応援しておくれ・・・!)
1月11日(木)たっくさん笑おうね!なにとぞ!!!!

はぁーーーーーーすっきりした。書きながらえぐえぐ泣きました。
これで安心して今年の振り返り記事も書けそう!
(果たして本当に書くのか私、あと2日しかないぞ私)
お楽しみに!!!!!(いろんな意味で)


では、またここでこっそり会いましょう。🕊️
最後まで読んでくださりありがとうございました、お相手は但木美孔でした。💁🏻‍♀️



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