セカライを観て感じたマジミラとの違い
この度、『プロジェクトセカイ COLORFUL LIVE 1st -Link-』(以下『セカライ』)の千秋楽を現地で鑑賞してきました。
その感想ですが、端的に全体の感想を言うなら、
「楽しいショー」
でした。
そう、ライブというより、ショーだと思ったのです。
それは、セカライがストーリー仕立ての構成であることに起因します。
私がセカライを観ていて特に感じたのは、バンドメンバーの存在感の希薄さでした。
マジカルミライ(以下『マジミラ』)のライブは、ボカロとバンドメンバーによるライブであるとも言えます。
バンドメンバーが画面に映ることも多々ありますし、目立つパフォーマンスをすることもあります。
反対に、セカライでは、紹介もされず、ほとんどスクリーンに映らず、といった具合で、まるで黒子のような扱いです。
マジミラを始めとするボカロのライブでは、ボカロという虚構の存在と、バンドという現実の存在が舞台上で交わり、更には観客が舞台装置としての役割を果たすことにより、本来虚構であるボカロによるライブを現実に作り上げています。
一方、セカライはストーリー仕立てであり、キャラ達は個々に演奏や歌唱をしている設定なので、バンドメンバーは物語の外に存在していることになります。
それ故に、バンドメンバーは黒子にならざるを得ないのです。
その結果、セカライは、虚構と現実が融合することなく虚構で完結していると感じました。
だから、ライブではなくショーだと思ったわけです。
発表当時、セカライが『マジカルミライ2022セカイVer.』等と揶揄される向きもありましたが、本質的には全く異なる存在なのだと私は考えます。
もちろん、それが悪いことなのかと言われれば、そんなことはないと思います。
私は、セカライの意図は、プロジェクトセカイの世界観を表現することではないかと感じました。
本来、某アイドルアニメ等の様に、声優を直接ステージに上げるライブもできたはずですが、それをしなかったのは、マジミラという見本があったからだけではなく、プロセカという作品のイメージを重視したからではないかと私は考えます。
声優という現実と、キャラクターという虚構は、いかに声が同じでも違う存在です。
そこで、あえてライブ感を減じてでも虚構を貫くことで、初音ミク達と並び立つ存在である今作のキャラクター達を表現しようとしたのではないでしょうか。
そう考えると、セカライがライブというよりショーであるのは意図に沿った形であって、正解なのだと思います。
ここまでマジミラとセカライの違いを述べてきましたが、セカライがつまらなく感じたのかといえばそんなことはありません。
プロセカファンとしては、プロセカへの思い入れが深まる良きイベントであり、次回も期待したくなるほど楽しいものでした。
また、ミク廃としては「自分はやはりミクさん達が好きなんだ」と再認識できるいい機会だったと思います。
以上、強度の妄想と偏見と思い込みに満ち溢れた、感想でした。
なお、細かい感想は、またTwitterでつぶやきたいと思っていましたが、とても長くなってしまったので、こちらにまとめました。
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