ニヒリズムからの脱却

「アドラー心理学は楽観的だ」という人がいるけれど、それは「半可通」というものだ。アドラーは、

1)まず西洋近代文明に失望した。このままでは人類は必ず滅びると思った。

2)しかも価値相対論者だったので、自分の価値が正しくて他の価値が間違っているという狂信的な立場に立たなかった。

3)そのままではニヒリズム一直線なので、人々に向かっては、せめて(ゲゼルシャフトと二項対立する意味でのゲマインシャフトを思い出すという意味での)共同体感覚を共通の価値として認めてくれるように頼んだ。

4)さらに、行動家として、いつでも「自分にできること」を考えて生きようとした。

5)そのためには自分や環境のネガティブな面に注目していてもしょうがないので、ポジティブな面を意識することにした。

6)このような立場を彼は「治療的楽観性」 therapeutic optimism と呼んだ。これだけのことがわかっていると、ちゃんとしたアドレリアンだ。


(中略)私はというと、ここ2年ほどかかって、アドラー心理学を20世紀初頭の思想史の文脈の中に置いて、その意味を正しく汲みとろうと努力している。まだ論文に書けるほど醸せていないが、来年にはなんとか形にしたいと思っている。

新カント学派とか、マックス・ウェーバーとか、ケルゼンとか、レオ・シュトラウスとか、さらに拡げるとフッサールとかハイデガーとか、そういう人たちがしようとしていた仕事の中にアドラーの仕事をはめ込んでみると、アドラーが本当に言いたかったことがわかるんじゃないかと思っている。

(中略)道徳だの幸福だのというのはやっかいな問題だ。すくなくとも「欲求不満の解消」ではない。

https://adlerguild.sakura.ne.jp/diary/2016/12/26.html

いきなり長文の引用で申し訳ない。「ニヒリズムからの脱却」という大層なタイトルだが、良い物が思いつかなかったから適当に付けただけで、今回はひたすら自分の為に書こうと思う。強いて言えば虚無の深淵に足を踏み入れていない人向けだ。

一昨日、母が二度目の解離?(恐らくトラウマのフラッシュバック)を起こして結構大変だった。以前よりも酷く、今回はお隣さんまで聞こえるぐらいの声量で「誰か見ている」「嫌だ」「一人にしないで」と泣き叫びながら私に抱きついて来た。朦朧としていたし、目はうつろで焦点が合ってなかったし、崩れ落ちるような感じだった。

きっかけは近くを走っていたバイクの音で、家のすぐそばで音が止まったのを酷く怖がっていた様子だった。祖父が亡くなった時に白バイ隊員さんでも来たのかな。今まではパトカーの音や、ヘリコプターの音もダメだった。

医師からの診断は社会不安障害だったが、個人的にはトラウマケアの方が良いのではないかなと考えている。症状だけ書き起こしてみると統合失調症の前段階や認知症のようにも思えるが「誰かが見ている」というのは、実際に見えているのでは無くて「見ているんじゃないか」という不安を強調した発言のように聞こえた。「ほらあそこに」みたいに指し示す言動も無かったしね。

フラッシュバックが起こった当時はアルコールが入っていた。例の140万近くの請求でお酒を以前よりも求めてくるようになった。まあ問い合わせの電話をする最初の2~3日ぐらいはいいかと思っていたのだけれど、判断ミスでしたね。


だいぶ前に「朝起きたら母が自殺してるんじゃないかと不安に駆られる」というような事を書いた気がする。普段の母とはお互いに冗談を言い合ったり、子供っぽい事をする仲だ。それでも時々こういう事が起きると、とても不安になるんですよね。普段の関係性が明るいから尚更。

私は「ヤングケアラー」という物語を自分には採用しなかった。そのかわりに「縁起と過去生の業」という物語を採用した。知性化防衛と言われればそうかもしれないとも思う。だが「流れ」が私に求めているのなら、後はそれを私が呪うか祝福するかは自由に選べる。だから、苦しいけれど苦しくない。

ある出来事が起こる。たとえば、昨日誰かと口論になったとする。そうして目覚めたら、もやもやした感情の処理を先にすべきか、朝食を取ることを先にすべきか考える。ある日は、ともあれトイレに行って洗顔して、さまざまの朝の行事にとりかかることにするかもしれない。そのうち暇になる時間があれば、その時間に昨日の事について考えるかもしれないし、考えないかもしれない。あるいは別の日は、布団の中でその日の事についてもやもや考えてみるかもしれない。そうして、いちおうの決着がついてから朝食を取るかもしれない。どちらにするかは私が決めることができる。いつだって、どんなときだって、私が決めることができる。…これが私のアドラー心理学だ。

私が生まれたことも、生きていることも、死んでいくことも、元気であることも、ときに病気をすることも、人と仲良くできることも、ときに仲違いすることも、おいしいものを食べることができることも、ときに食べものがないことも、桜が咲くことも、やがて散ってしまうことも、すべて巨大な因果のシステムの中で、そうでなければならないからそのように起こっていることであり、「全体」は巨大な「意志」でもってある方向に流れている。私はいまここにいて、そのお手伝いをしている。「流れ」が私に役割を与えてくれている。

そういう「役割」が、例えば情緒不安定になった母を介抱したり、人前で緊張して吐きそうになったり、朝に焼いた目玉焼きが崩れてしまうことであったりする。それらすべては、私が理解しようとするまいと、メタフォリカルな言い方を許していただくなら、仏さまのおはからいであり、神さまのおめぐみだと思う。


  所属のために選ぶ方法は 人ごとにみな違うものであり

 それが個人の個性を作り出す いかなる個性も所属に向いている

 ある種の個性は所属を目指しつつ 正しい方法学んでいないため

 競合的な目標追求し 努力をしても結果が得られない

人は社会的な動物で 社会があってはじめて生きられる

 そのため人の究極目標は 社会の中に居場所を見つけ出し

 所属をとげて人から愛されて 仲間と一緒に暮していけること

まだ書くことがある。が、ある人達に許可を貰わなければ書けない。