人生には役割がある

心理し界隈の事を考えているとうつ病になりそうだったので、たまらず友人に「どうしたら本音を書けるかな?」と相談した。他愛のない会話を少しした程度なのだが、とても落ち着いたし、発見もあった。

才気溢れる彼と比べたら私なんぞ赤子のようなものなのだが、物凄く刺激を受ける。逆に何か刺激を与えてあげたいのだが、彼の前だと私には「野田俊作はこういった」ぐらいしか言えないので、来世はもうちょっと足りた頭を持って生まれたいなと思った。

最近、共同体感覚を「べき論」で考えてしまっていたような気がする。野田先生はあれ程「べき論」を嫌っていたのに、共同体感覚をある種、論理偏向的に「きっと野田先生ならこういう風に考えるだろうな~」と感じてしまっていた。例えば以下のように、

「心理し資格を持っていた方がクライエントさんは安心だし、自分の能力もそこを目指さない時より信頼のあるものだろうし、自己愛に対してSVさんの指導も受けれるだろうし、研修やその他の情報も回ってくるし、何よりその状態でアドラー心理学会に入れれば学会が臨床心理士資格認定協会の認定に一歩近づくんだからやっぱり心理士資格は取る『べき』だよなぁ」

という感じで。理屈でここまで分かってしまっているからこそ苦しいのかもしれない。それにこの考えが現実逃避的な、現状を変える為の努力からの逃避でないかもチェックしなきゃいけない。真面目か。

それでこの間、心理し資格を持つ一部の方々の、他の資格を持っていないカウンセラーへの過剰な正義に愚直を吐いていたのだが、それもそれで建設的ではないなぁ~と思う。批判する、既存の物を壊す事は少し知恵が働く人なら誰でもできる。壊すのなら、責任を持って新しい物を建てるところまでやるべきだと思う。と、そんな事を考えていたら、益々何も言えなくなった。その一方で「粛々と今やるべき事やる」というのが最適解だという事も知っていて、頭の中が「loading…」状態に。


などなど諸々の経緯で「どうしたら本音を書けるかな?」という事を相談したら、相手側の第一声が「思った事書いちゃうな~」で、死ぬほど羨ましく感じた。なんというか諦めがついた。自分と対極に位置する人を見ると、「ああは絶対なれないな」と感じるが、そんな感覚だ。その後少し悟ったのだが、多分「思った事を書く」というのは私の役割ではないんだと思う。

社会的な影響を受けない人間存在そのものに「役割がある」というと、スピリチュアルな方向か、或いは結局社会に対する隷属としての言葉になってしまいそうなので「人間そのものに役割がある」と書かないが、私は人の生きる道、人生には役割があると思っている。

野田先生がよく「全体が私に役割を与えている」という事を言っていた。汚れ役をやっている人は「全体」がその人に汚れ役の役割を与えていて、その人によって救われる人が居て、そうでない普通の人も「全体」がその人に役割を与えていて、その人によって救われる人が居て、汚れ役を恨む人が居て、普通の人を恨む人が居て、そうして絶えず世界が循環している。

「世界は有機的に生きている」と考えたアドラーの偉大さを改めて感じた。私と対立する人も、私に賛同してくれる人も、私を恨む人も、私と決別する人も、私に無関心な人も、全て必要な役割なのだろうな。そうして辛うじて、この世界の造形が奇跡的に保たれているのかもしれない。

ともあれ、久しぶりに母と一日を過ごして(普段はお互いの部屋に籠りきりなので)色々な人の助けを借りて、心は穏やかだ。

私の役割は、汚れ役の人の傍に居る事だと最近思う。どんな人間だって、ひとりはつらいよ。

眠い頭で綴っているので変な事書いてます。許してください。