マヌ、はじめての火起こし体験

巨茴香と魚

———

「ヒ、ヒ、ヒ」
 ブツブツと呟きながら、小枝で木片を叩いているのは、人の形をした何者かであった。鱗に覆われた身体、節々にある半透明の膜に陽光が反射し、息をするたびに首元にある鰓のような器官が暗い朱色を覗かせた。訝しげにそれを観察する4人の男たちが息を潜め話し合う。年齢はまばらだが、全員が痩躯で、疲労が隈や白んだ髪に表れている。
「本当に大丈夫ですかね?不意をついてけしかければ、もしかしたら⋯」
比較的若い男が、真ん中に立つ男へ声をかける。ごつごつと骨の張り出した手を顎に当て、
「無理だな、今の人数じゃ。あの時ですら2人殺されたんだ⋯」
 そう言って、魚人をぼうと見つめる子供へ目をやる。一見14、5歳ぐらいの風体だが、実年齢は17歳。生まれた頃より栄養が足りず、弱視を患っている。
「とりあえず放っておく。距離をとって、妙な素振りを見せたらすぐに逃げるぞ」

 潮が引いた。
 陽光は鋭く、あたりには日陰もない。男たちはたまに海水をすくい、頭を濡らしてまた無心に貝を獲り続ける。魚人の座っている岩盤が一番の群生地なのだが、誰も近づこうとしない。それに気づき、
「イガラシさん、僕あっちで採って来てもいいですか?」
 と、背の低い子供は魚人の方を指差した。
「⋯あぁ。」
 五十嵐は無愛想に答える。ざぶざぶと歩き出した小さな背に向かって、
「おいミナト!くすねたりしたら承知しねぇからな!」
 と怒鳴った。子供は表情を変えずに精一杯の声で返事をしたが、大きな飛沫の音でかき消された。
 魚人が海に飛び込んだのである。
 (諦めたのか)
 ミナトは安堵と、ほんの少しの落胆を感じた。
 海は彼らの故郷であり、海水は彼らの空気だ。鰓を持つ彼らが何故水面から出て来たのか、なぜ地上での活動が可能なのか。彼らが地上に現れたのがここ数年での出来事であるため、人間達はただただ翻弄されている。
 水を吸った、一回り大きな靴を引いてミナトは岩盤にあがった。
 「あっ」
 思わず声をあげた。透明度の高い水面から、魚人の頭部と、鱗でびっしりと覆われた腕だけが伸びている。その手先はあいも変わらず枝が握られている。
 気配を察したのか、大きく見開かれた瞳がミナトを捉えた。瞳孔が異様に小さい。顔を構成する要素は人間と同じである分、かえって異形さを強めている。足が硬って、そのまま後方へ倒れ、飛沫があがった。
 澄みわたる海水と、燦々とした陽光が、彼の衰弱した眼球を刺す。無我夢中で立ち上がり、岩盤にあがった。疼痛にうめき声をあげる。遠くに居る男達は飛沫こそは気に留めたものの、海上に出たミナトをみとめるとすぐに作業に戻った。
「痛い、痛い、痛い⋯!」
 うずくまるミナトを見て、魚人が水からあがった。覚束ない足取りで近づいてくる。
「イタイ?イタイ⋯痛い!ナンタテメ!」
 復唱と意味不明な言葉しか発しない魚人は、じっとミナトを見つめた。
「水⋯」
「水!」
 魚人は明朗に叫び、岩間からアルミ製の水筒を取り出した。慣れた手つきで蓋を外し、ミナトの口に押し当てた。
(⋯水だ!)
 塩を含まない水。比較的雨量の多いこの地域でも、貴重なものである。さまざまな疑問は痛みに押し負け、マヌの手からそれを奪い取るようにして、目に押し当てた。それを見たマヌは驚いた様子で、
「ノム!チゲ!」
 と喚いている。しばらくすると、塩分が洗い出されたのかようやく痛みがおさまってきた。意識が正常になると、様々な疑問がミナトの頭を巡った。しかし目の前の魚人からまっとうな返答が来るとも思えない。
(助けてくれた⋯?でも、こいつのせいでこうなったんだし)
 と考えていると、浜辺の方から声が聞こえてきた。
「おいミナト!サボってねぇか!」
 自分の役割を思い出し、急ぎ岩間を縫いひたすらに手を動かした。魚人は相変わらずコンコンと枝を打ち付けている。
 日影が傾く頃には、十分な量の貝が採れた。潮が満ちてきたので、ミナトはそそくさとその場を離れていった。魚人はそれを見ていたが、追いかける素振りも見せなかった。

 帷が降りた。
 手狭な岩窟に、薄い大判の布切れだけが敷かれている。一行は馬蹄羅や紫鸚哥などを、生のまま食し、早々に眠りについた。
 見張りの番であるミナトは、下がってくる瞼を必死に押さえている。
 (あの魚人、まだいるかな)
 不思議と、居る、という確信のようなものがあった。月はその身を大きく削り、僅かな明暗の差しか頼れるものがない。しかしそれでも、彼の沸き起こる興味と、少しの良心が彼を突き動かした。
 寝息のあがる洞窟内にそろそろと入り、目的のものを持って外へ歩き出した。

 数時間前と同じ浜辺に立ち、ミナトは目を凝らす。
 十六夜の月に元来の弱視があわさり、魚人の居た岩場すらも判別できなかった。潮汐により歩いて渡ることもできない。しかしリスクを冒して赴いた彼の足は、まだ動かない。
 持ち寄った枝を浜に置いた。あたりにあるなるべく大きな石を探し、出来るだけ遠く、眼前に広がる闇の中へと投げ込んだ。何度も、何度も、投げた。
 まもなくして、ゆらゆらと黒い影が音もなく近づいてきた。ミナトはそれに気づかない。
 ざぱっと飛沫があがる。
(きた!)
 おそらく昼間に遭遇した魚人が、砂浜をゆっくりと歩いてきた。腕には大事そうに木片を抱えており、それを砂浜に置いた。僅かな光すらも逃さないその鱗は、脈を打つように明滅している。
「ナンタ?」
 と言いながら、すぐに腰を下ろし、また枝を木片に打ち付け始めた。
「そんなので火がつくわけがないだろ」
 恐怖よりも、苛立ちが湧いてきた。
 困窮する自分達とは違い、自由に海を渡り、卓絶した筋力を持っている。なにより、未来がある。しかしこの魚人は間抜けな言葉を吐き、人間に敵意を向けず、騙され意味のない行為をし続けている。今まで燻っていたものが、吹き出してきた。
「君は騙されてるんだよ。こんな湿った木じゃなくて、もっと乾いたやつじゃなきゃ。それに叩くんじゃなくて擦るんだ。僕達ですら半日かかったりする時があるのに、君が起こせるわけないよ」
 魚人は目を瞑った。一呼吸おいて、
「チンタラ、チンタラ」
 とつぶやいた。
「ボク、マヌ⋯⋯フェ、マヌ⋯テュェ」
 続く言葉がうまく発音出来ないのか、空気の抜けるような音を喉から出している。
「何言ってるか全然わかんないよ。君、マヌっていうの?」
「ア⋯」
 魚人は首を縦に振った。
(なんなんだこの魚人は。本当に襲うつもりがないのかな。それに火を起こすなんて⋯)
 次第に恐怖心は薄れていく。マヌとされる魚人に近づき、ミナトは右手を突き出し、開いた。
 そこには左側面だけが赤道色をした小さな箱がある。魚人はそれを怪訝そうに見つめ、鰭のついた腕を伸ばすが、
「触っちゃだめだ」
 咄嗟に遠ざけられた。ミナトは外箱を持ち内へ引き、短い数本の棒の中から慎重に一本を取り出した。
「これがあれば、あんな事しなくたってつくんだ。見ててよ。」
 浜に置いていた枝をつまみあげ、丁寧に重ねていく。枝同士が擦れるたび、乾いた小気味のいい音がした。組まれた枝の間に、ぼろ切れを入れる。
「君がやると使いものにならなくなるから、僕がやるからね。」
 左手に持った箱を確認し、棒の先端をその側面につけた。右手を引く。
 微細な火粉が潮風に流され消え、同時に小さな炎が彼の指先に生まれた。
 魚人は絶句し、開口している。大きな瞳の全面に、炎が写っている。ミナトはその火種を不恰好な薪の中に投げ入れ、身を掲げて息を吹きかけた。炎は自在に揺れうごき、篝火となった。
 自分達が生まれ育った世界には存在しない、炎というものの美しさに触れ、その誕生を見届けたマヌは心を奪われる。しかしそれを表す言葉を、彼はまだ知らない。
「ヒ!ヒ!ヒ」
 現象としての名を呼ぶことしか出来ない。そのもどかしさを表す語も、彼の中にはない。
(喜んでるのかな、これは)
 貴重なマッチだ。一本でもなくなれば、すぐに五十嵐が気づくだろう。そして疑わしい行動をしてようがしていなかろうが、自分は標的にされる。そんなリスクをとってまでこの魚人に火を見せる意味があったか?という疑問も、目の前にある煌々としたゆらめきによって薄まっていく。
「綺麗だよね」
 魚人ではなく、内なる己に声をかけるように呟く。
「キレイタヨネ?」
 聞き返したマヌは、必死に頭を回した。知らない言葉だった。
「キレイタ?ナンタテメ、イミワ⋯ンネ」
 意味を聞き出したいが、どう訊けばいいかわからない。知っているそれらしき単語を繰り返した。
「綺麗」
 ミナトは炎を指さすと、力なく微笑んだ。マヌはそれを見て、また奇妙な表情をした。昼間よりも少しだけ、目じりが上がっている。
 静寂が訪れ、二人の視線は静かに炎に向けられている。筋張ったミナトの指間には、濃い影が落ちている。魚人は乾燥に弱いようで、頻繁に目や頭に海水を塗りたくっている。次第に炎の勢いが減衰しはじめた。もう終わりか、と一時の安らぎを惜しんでいるミナトの隣で、先程まで何度も水分を補給していたマヌが、目を見開いたまま静止していることに気づく。
 ゆっくりと、マヌは炎へ近づいていく。初めは傍観していたミナトだが、彼の動きが止まる様子のないのを見て、思わず
「待って!」
 と声を上げるも、彼の動きは止まらず、静かに炎と接触した。
 瞬間、あたりを切り裂くような声をあげ、マヌは海へ飛び込んだ。その飛沫で、炎はあっけなく鎮火した。
(だから言ったのに)
 相手が言葉を介さないというのは承知だが、それでも咄嗟のことで動くことができなかった。浅瀬に入り、周囲を見渡すが魚人の姿はみとめられなかった。その後しばらく待ったが、魚人は現れることはなかった。生まれてから嫌というほど鳴っている、漣の音だけが彼の周りに満ちていた。

 暗澹とした海中も、魚人にとっては昼と変わらない。しかし倒錯したマヌは何度も岩に当たりながら、ふらふらとひたすら前へと進んだ。何度衝突しても、その鱗は整然と配列を崩さない。まとわりつく疼痛は極めて不快で、瞼を閉じてもチカチカとした光芒はその視界から離れることはなかった。しかしそれでも尚、彼の脳裏からあの煌めく赤光が消えることはなかった。
 (イタイ、イタイ、イタイ!)
 苦痛に耐えながらも、その口角はうっすらと上がっている。
 (キレイ!ヒ、ヒ、ヒ!——)

 
 (優しい人だった)
  竿を握るマヌは往時の記憶に浸っている。
 (私に火を与えた人間。今なら君よりも上手く、火を起こせるよ)
 


 


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