保湿クリームを作るマヌ

 (クラゲ⋯)
 改めて身体に、不恰好に千切られたクラゲの片を塗りつけてみる。
「ヌルヌル⋯モット」
 確かにヌルヌルとしているが、粘度が弱く、十分に身がきざまれていないせいでボタボタと地面に落ちた。現時点で一番クリームに似ている、というだけで人間のつくったそれには遠く及ばなかった。マヌは座ったまま、力なく上半身を倒した。飛沫があがり、その身は海水に包まれた。
(モジ、ヨムタラ、ツウルデイル ?)
(モジ、ヨムタラ、ゼンブツウルデイル ? カミモ ?)
 文字が読めるようになれば、完璧なクリームが作れるようになるのだろうか。そう考えていると、今マヌが一番欲しい物⋯紙も作れるようになるのか、と夢想した。海水が彼の頭を冷やすが、彼の想像は止まらない。広角がゆっくりと上がってくる。
 なにかが弾けるような感覚を覚え、その身体を翻し、また天を目指し泳いだ。
 地上にいる時、彼の身体はひたすらに重い。しかし心はいつでも、どこまでも軽やかだった。

 それから、80年の月日が流れた。
 刺すような陽光と、くりかえす潮汐だけは永遠にその姿を変えないように思えた。
 マヌはまだ、地上にいる。
 昔拾ったチューブの側面に書かれた文字⋯成分表は、もう掠れて読めなくなっている。だが、彼の家の蔵書に寸分違わずに書き留められていた。言葉を覚えたての自分が、意味も知らないままに必死に書き殴った文字。線は震え、何度も書き直され、出鱈目な順で書いてある。だが、不思議と読むことができた。
 これを見ていると、マヌの心にはいつも、薫風がぬけるような心地よさが芽生えた。
 
(メトキシケイヒ酸エチルヘキシル)
 30年まえに作った、地上初の彼の住処。小高い岩間の洞窟を少しだけ切り拓き、所々に流木を加工し作った棚や机がある。人間達の言う“家”には遠く及ばない簡素な造りだが、おそらく、この世界で一番“家”に近い形をしている。
(ジメチコン、エチルヘキシルトリアゾン。)
 ぽつぽつと黙読をする。小さな窓から、穏やかな海風が入ってきた。
(成分が分っても、製法が分っても。)
 水平線をみつめる。
(材料はすべてあの中だ。文字が読めても、出来ないことだってあるんだよ)
 マヌは過去の自分に言い聞かせるようにして、本を閉じた。

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