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濃い人生が送りたかったんだと気づいた

こんにちは!
カウンセラー見習いの橘奈緒美です!

本当に幸せになりたいなら、今すぐなれる。

そう言われたら、「え?そんなの無理でしょ、だってあれも欲しいし、自分はああなってないし、本当はもっとこうしたいのに」
という不足感が次々と湧いてしまうでしょうか?

以前の私はそうでした。
というか、最近もそういうときがあります。

どうしていつも、「なにかが足りない」気がするんだろう?
どうしていつも、「他人の芝生ばかりが青々と見える」のだろう?

そう思って、ワークをしたり、お弟子講座のノートを見直したりしていました。
他人と比べて凹んだり嫉妬する「比較競争の罠」に引っかかったときは、負けを認めて相手をイメージの中で自分と統合する、という方法があるので、それを実践してみたりして。

それでもまだちょいちょい比べて凹んだりしちゃう。
自己肯定感が足りていないのはわかるけど、そもそも、なぜそんなに人のことを羨ましいとか、すごいなって思って見上げてしまうのか。

私にとっての答えは、
「濃い人生を送りたいと思っていた」ということでした。

私の自己評価が間違っている、というのはここ最近何度も言われてきたのでわかっているのですが、私は自分のことを「薄っぺらい、すぐ飽きられる人間だ」と思ってきました。

だから、濃い人生を生きている人に憧れるんですね。
時代の先を読んでバリバリ仕事をしている人、仕草や生き様にも美が宿っている美人、大好きなパートナーと一緒に幸せに生きている人、表現者として華やかなお仕事をしている人。などなど。

その人がどんな人生を送っているかなんて実際はわからないけど、

あんな濃い人生を歩んでみたい。
私はなんてペラペラなんだ。
すぐ読み終わっちゃう4コマ漫画みたいだ。
もっと重厚で、人の心に残るような存在になりたかった。

そんなことを考えていたんです。
だから幸せそうな人の青い芝生を見ては、「私にはかっさかさで茶色い、ハゲ散らかした芝生の庭しかない!」なんて思って、勝手に凹んでいました。

でもよくよく思い出してみると、
「その服すごくいいね、似合ってる!」
「いろんなこと勉強してるし、話してて楽しい」
「自立して仕事してて、すごいと思うよ」
と言ってもらえることだってあった。

私の芝生も、他の人から見たらそれなりの濃さを持っていた。
(なんか前にもこんなことを書いた気もするけど、まあいいか)
なのに、自分で勝手に薄めてたんです。

人から見たらまあまあのブラックコーヒーなのに、私には3度目のお湯を足したお茶みたいな薄さに感じられていたんです。
そりゃ味気ないはずだわ。
(いつの間にか芝生が飲み物になっちゃった。まあいいか)

これって多分、自分がある意味で濃いことに慣れてしまってるということでもあるし、感謝が足りなかったんじゃないか、とも思います。

そして、「今の現状に感謝する」ことさえ思い出せれば、今すぐ幸せになれるということにも同時に気づきます。
だって、ぼんやりした気分で飲んでいた薄いお茶が、実は美味しいコーヒーだったって気づけたら、幸福度は全然違いますよね。

今持っているものや経験の濃さを当たり前に思ってしまっているから、薄っぺらく感じてしまう。
これはもう癖のようなものだと思います。

以前、『現状に文句を言っているときは、感謝が足りていない』
というのもどこかで何かで読んだ気がするのですが、ここに「退屈」も入るのかなと思いました。
文句を言ったり、退屈をしているときは、大抵の場合、今あるものへの感謝を忘れている。

「もっと濃い人生を歩みたい」という思いは変わらないけれど、今あるものをよく味わう、というのも大事なことなんだろうな。

他人の芝生も青いけど、私の芝生も青い。
あっちのコーヒーも美味しいけど、私のコーヒーも味わい深いじゃない。

そんな風に、ゆっくりと、今の自分の人生を味わいながら行こうと思います。

読んでいただき、ありがとうございました!
明日からはお弟子講座、楽しんできます!!

橘奈緒美でした!

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