中川家のおばちゃんコントが”リアルに見える”ワケ
私は、中川家のコントが好きだ。
なかでもとりわけ気に入っているのが、「おばちゃんとおばちゃん」のコントである。
タイトルの通り、中川家の2人がおばちゃんの恰好をしてコントをするのだが、妙なリアリティがあって非常に面白い。
しかし、ここである一つの疑問が浮かんだ。
「なぜ、本物のおばちゃんではない2人のコントに、ここまでのリアリティがあるのだろう。」
もちろん、演技の上手いコンビだから、おばちゃんの特徴をうまく捉えられている、というのもあると思う。
だがそれ以上に、この「おばちゃんコント」には、迫りくるものを感じるのだ。それは、現実のおばちゃんからは感じられないような「リアリティ」のパワーである。
だからこそ、このコントはシリーズ化され、人気となっているのだろう。その証拠に中川家のおばちゃんコントは、上で紹介した動画以外に多数のバリエーションがある。
この謎を解き明かすキーワード、それは「リアルとイデア」だ。
本記事では、リアルとイデアの意味について考えていくことで、おばちゃんコントの魅力を解き明かすことを目指す。
リアルと現実の違い
「リアルなサウンド」は何を意味するか
リアルという言葉は、そのまま日本語に訳すと「現実」である。
ただ、この2つの言葉は厳密には同じではない。
例として、「リアルなサウンド」という言葉について考えてみよう。
この言葉は、イヤホンやヘッドホンの宣伝文句としてよく使われている。
こうした事例からもわかるように、「リアルなサウンド」というのは、ライブなどの現実にある音楽体験を指すわけではない。
そうではなく、「まるで現実のように感じさせる音響技術」を意味するのが、「リアルなサウンド」という言葉なのだ。
ライブなどの音楽体験は、「現実のサウンド」ではあっても「リアルなサウンド」ではない。
このように、「リアル」という言葉は本質的に「現実ではない」という意味を含んでいることがある。
中川家のコントが「リアル」と評価される理由
ここで、中川家のおばちゃんコントについても考えてみよう。
彼らが舞台上で演じるおばちゃんの姿は、本物のおばちゃんとそっくりだが、彼らは女装しているため、その点でどう頑張っても本物のおばちゃんとなることはできない。
だからこそ、彼らのコントは「リアル」であると評価されているのだ。上で紹介した動画のコメント欄を見ると、リアルという言葉が多く使われていることがわかるだろう。
だが、決して「現実」という言葉は使われていない。彼らは、現実のおばちゃんとは別物だからだ。
「イデア」とおばちゃんコント
リアルなものは現実より劣っているのか
ここまでの議論で、リアルという言葉の意味について考えてきた。
だが、これだけだと「リアルなもの」が、現実に比べて劣っているという印象を受けるだろう。
ここからが、この話の面白いところだ。
実は、リアルなものは時として「現実を超えること」がある。
イデアについて
クリシェになってしまうが、ここで「イデア」という言葉について簡単に説明しよう。
イデアというのは、プラトン哲学の用語で「象徴界」を意味する。
例えば、私たちが住む世界にはコインや眼鏡など、たくさんの丸いものが存在している。
私たちがそれらを「丸い」と認識できるのは、現実の世界とは別に「丸」という概念(イデア)が存在する象徴界があるからだ、というのがイデアという考え方である。
少々難しい説明になってしまったが、「物が存在する現実世界」と「概念が存在する象徴界」があると理解してもらえれば十分だ。
もちろん、イデアで言われているような「丸いもの全ての原点である丸そのもの」という概念は、現実には存在しない。
この話で特に面白いのは、最も本質的である概念が、現実に存在しない(バーチャルなものである)ということだ。
「おばちゃんのイデア」を演じる
これを中川家のコントに当てはめてみよう。
象徴界には「おばちゃん」のイデアが存在しているが、現実にいるどのおばちゃんも、「本質的なおばちゃんの概念」を象徴してはいない。現実世界には、イデアは存在しないからだ。
しかし、中川家は(当たり前だが)おばちゃんではない。
彼らは、おばちゃんを観察することによって「おばちゃんに共通する行動」を抽出し、それを舞台上で演じている。
その点で、彼らが演じるおばちゃんは、どこにでもいるようでいて、どこにもいない。なぜなら、それは「あらゆるおばちゃんの集合体」だからだ。
こうした特徴は、イデアとよく似てはいないだろうか。
厳密には、彼らが演じるおばちゃんも現実に存在するのでイデアではないが、「あらゆるおばちゃんの特徴を集め、おばちゃんらしいおばちゃんを作り上げる」という行為は、イデアに限りなく近づこうとする試みとしても解釈できる。
もし、現実のおばちゃんが舞台上でおばちゃんを演じたら、間違いなく忠実な再現ができるだろうが、演じるのが本人であるため、どうしても「現実の存在」という印象が強くなってしまう。
よりおばちゃんらしい存在、つまり「おばちゃんのイデア」に近づくためには、演じる主体は別人であるほうが望ましい。「本人よりも似ているモノマネ」なども、その一例だろう。
しかし、演じるのが子供や若い女性など、おばちゃんから遠い存在であった場合、見た目の部分をうまく象徴することができない。その点で、おっちゃんがおばちゃんを演じるのは、様々な意味で最適な選択といえる。
類似する例
余談になってしまうが、中川家のコントに限らず、女装や男装によって現実より魅力的な女性像、男性像を表現する例は多くの場所で見られる。
古くは、歌舞伎における女形や、男性歌手が女性を主人公とした演歌を歌う例である。しばしば、彼らは現実の女性よりも色っぽいと評価されることがある。
男装の例だと、宝塚がそうだろう。
宝塚のファンの中には、タカラジェンヌこそが理想の男性だと考えている人がいる。なぜなら、彼女たちは男性の魅力的な部分だけを象徴しており、体臭や男性器といった男性の汚い部分は持っていないからだ。
このように、女装や男装は色っぽさや魅力といった要素を、象徴(かつ強調)することができるという効果を持っている。
そして、それは彼らがバーチャルな存在であることに由来している。
まとめ
最後に、この記事の議論を振り返ろう。
まず、「リアル」という言葉が現実とは違うこと、「限りなく現実に近いもの」に対して使われる言葉であることを確認した。
そして、「イデア」という考えを用いることで、それが現実に劣るものではなく、むしろ「現実をより象徴するもの」となる可能性について考察した。
中川家のおばちゃんコントがリアルに見えるのは、「彼らは現実のおばちゃんではなく、おばちゃんという概念(イデア)に限りなく近いものだから」というのが本記事の結論である。
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