北守氏の『「宇崎ちゃん」献血ポスター、なぜ議論がこじれるのか』に対する疑問と反論

長くなりそうなので、できるだけ簡潔に行く。

読んだ。

この問題に関するわたしの認識は大体こんな感じ。

・宇崎ちゃんの絵柄は巨乳のせいでパッと見エロ本にしか見えない。
・しかしgoogle imageの検索結果をパッと見たところ、宇崎ちゃんの作品自体はフツーの、最近の少年誌でいえばかなり健全なラインのラブコメっぽい。
・どうもそのユニセクシャルあるいは少年的な性格・言動と巨乳のギャップをフィーチャーしたキャラっぽい。

・おそらく作品を知らない人の多くには、エロ本のキャラに見えた。(わかる)
・作品に馴染んでる人は、先入観でエロ本のキャラ扱いされた事に憤慨した。(これもわかる気がする。けどちゃんと作品を読んでないので、ハッキリした事が言えない部分がある)

ふだんからオタクとフェミの間にある相互不信と敵対心の上にこんな材料がくわわれば、そりゃ燃え上がるわな、というのがわたしのこの件に対する考えである。

「宇崎ちゃんキャラの献血ポスター採用」は、「どこからダメでどこまでならOKなのか」を突きつける、繊細な対応を必要とする微妙な問題で、相手の話を聞く気がはなからない集団の間に投げれば、血を血で洗う展開必至のネタだと思う。


北守氏の記事では、「なぜこじれるか」は要するに、「こんなわかりきった問題なのに、これをポスター擁護側が話がわからないふりをして混ぜっ返すから紛糾する」という事を言ってる。客観的な論調で語ってるんだけど、ポスター反対側のかなり一方的な視点しか捉えていないから、もともとこの視点に賛成できる人以外、つまり宇崎ちゃんのポスターはアウトだ、という部分を感覚的に共有しなかった人にリーチアウトできないと思う。


たとえば、この箇所。

公共性の高い団体と低い団体、公共性の高い場所と低い場所、主体と客体、巨乳「である」ことと、巨乳「を描く」こと、性的なものが誇張された表現と誇張されていない表現。普段は区別できているはずで、そうでなければ日常生活を送るのも困難であろうはずのことが、当該のポスター問題になるやいなや、都合よくできなくなるのだ。「否認」を行うものは、この区別の可能性と不可能性のあいだを不誠実に揺れ動く。たとえば、公共性の高い場所であることを問題にすると、“巨乳「である」表現と巨乳「を描く」表現の双方を”排除せよというのか、と言う。女性の客体化を問題にすると、当該ポスターの絵を”あらゆる場所で”禁止せよというのか、と言う。延々と批判する側の主張を曲解し続け、そのような曲解はエコーチェンバーによって拡散される。そして、最終的に「何を言いたいのかわからない、結局はお気持ちの問題なのだろう」「アニメ・漫画表現が嫌いなのだろう」と締めさえすれば、けして負けない議論ができるのだ。

公共性の高い団体と低い団体、公共性の高い場所と低い場所、etc.、の「区別」。

それは「都合よくできなくなる」というわけではないだろう。

たとえば、公共性の高い場所であることを問題にすると、“巨乳「である」表現と巨乳「を描く」表現の双方を”排除せよというのか、と言う。

などするのも別に、「延々と批判する側の主張を曲解し続け」てるわけではないだろう。

「宇崎ちゃんが巨乳だ」という点ではおそらく皆納得している。

だから「公共性の高い場所だから宇崎ちゃんはダメだ」と言われたその時点では、仮にそれを受け入れてみている人は少なくないのではないか。

そうして仮に受け入れてみた人が、同等に公共性の高い場所にある峰不二子のポスターや下着姿の女性の写真を撮った広告が批判されていなれば、「それは何故なのか?」と疑問に思うのは当然のことだろう。

そういう意味でこのケースは微妙でややこしく、わたしが見たところ、大筋の論点だけでもざっとこれぐらいある。


・「アウト」とは何を意味するのか。(↓こういう範囲の批評を、企画担当を含む作り手へのメッセージとして投げているのか、それともそれ以上の対応を社会に求めているのか)

画像1

・献血という公共性の高い内容だからアウトなのか(宇崎ちゃんの漫画自体や、あるいは宇崎ちゃんのキャラを使った商品の広告なら駅や電車内に表示してもいいのか)

・駅や電車内という公共性の高い場所だからダメなのか(たとえば献血に行ったときに置いてあるパンフレットならかまわないのか)

・宇崎ちゃんが巨乳である創作物だからアウトなのか(90年代のパメラ・アンダーソンなら適切と言えるのか)

・胸のラインがはっきり見えているからアウトなのか。(マツコデラックスみたいな衣装ならオーケーなのか)

・宇崎ちゃんの作品自体をエロティックだと判断しているのか。(コブラ、ルパン三世、ジャスティスリーグ、ポカホンタスにティンカーベル、どこまでならオーケーなのか)


基本的に最初のポイント「作品への批評なのかそれ以上なのか」が「作品の批評」に留まる場合は、何を言うのもアリだろう。

「私がいやな気持ちがするからいやだ」と言っても全然構わないし、論点に矛盾があろうと問題はない。そしてそれを読んだ他者がその矛盾を批判するのも問題はない。

でもたとえば北守氏はこの記事で、ポスター批判への理解と賛同を前提として要求している。(それに理解を示さずしつこく質問をしてくればそれだけで悪意認定し、話を聞かなくて良い存在に降格させている)

それは、「作品への批評」の範囲を超え、常識として共有することを強要しているように見える。それを共有できない相手は対話者としての資格を失うというわけだ。

そこまで要求される側からすれば、共有を強要されている基準が首尾一貫したものであることを確認するぐらいは当たり前のことだろう。

それだけでも「延々と批判する側の主張を曲解し続け」てる事に該当してしまう。それで対話者としての資格を剥奪するのなら、そりゃ全く対話なんて成立しない。


なお、わたし自身の考えはだいたい以下のようになる。

宇崎ちゃんの問題に関してできるだけ誤解なく自分の考えを伝えようと思えば、最低限以下ぐらいは伝える必要があると感じる内容だ。

考え方の違う人に納得してもらう目的ならばなおもう少し言葉を選ぶ。


・献血という目的と時代背景を考えれば、宇崎ちゃんキャラは良い選択ではない。

・しかし罰則を設けて禁止するレベルではない。(ポスターを創作物としては批判する)

・公共目的の宣伝に使用するには、少なくとも現代文化において意匠だけをとらえれば「性的すぎる」(ポスターを創作物としては批判する)

・宇崎ちゃんの漫画作品自体は公共の場所で関連物の表示を禁止するほどエロティックではない

・パメラ・アンダーソンあるいは同様に巨乳の女性が胸のラインがはっきり見える衣装/構図で撮ればリアルでも公共目的の宣伝には「性的すぎる」と考える。

・その線引きは一歩間違えば、一定の体型をした女性への偏見や差別に繋がったり、あるいは言論統制(ソビエト共産党下では女性の胸の膨らみを意匠にあらわすこと自体が危険なほどエロティックであるとして禁じられたが、それをWWIIにおける赤軍の過剰な性暴力の原因に挙げる研究者もいる)に繋がったりしかねないものなので、慎重に扱う必要がある。

・グラビアのモデルにスタイルのいい女性を選ぶことが差別ではなく、ハンドクリームのモデルに手の美しい人を選ぶことが差別ではないなら、公共の宣伝目的にセックスアピールの強すぎる女性を選ばないことも差別ではないだろう。その範囲で却下されるのが理想的である。

・その範囲で却下されるには、それが「消費者/ターゲットによって忌避される」必要がある。つまり、「これはちょっと行きすぎですよね」という社会的コンセンサスに拠って立つべきものである。

・そのコンセンサスは、「自分にとっては望ましい刺激しか与えない表象も、他者にとっては不快だったり傷つくものだったりするから、それには配慮しよう」という相互的姿勢によって成立するものだ。

誰もが宇崎ちゃんの献血ポスターを「アウトだ」と合意すべき基準の配慮を求めるなら、たとえば↓も差別と偏見に満ちているとして拒絶されなければならないはずである。

画像2

けれどたぶん、ツイッター上でフェミニストを公言する人々の間ですら、そのコンセンサスはまだ取れないだろう。

これらのコンセンサスはこれからの対話によって築くしかないものだ。


北守氏の言うように、最初からまともな対話をする気がなくて揶揄だけしている人たちも確かにいるし、話を詰めようとすると延々に論点をズラして逃げ続ける人たちも少なからずいる。

しかしそれは、「宇崎ちゃんポスター」を批判する側と擁護する側双方にわりと公平に分布しているように見える。北守氏はまるでそれが擁護側特有の問題であるかのように語るが、さすがにそれは偏りすぎだろう。

そして、そんな偏った見方で、思ったように話が通じないことの全責任を相手陣営に無条件で背負わせることも、議論を「こじれさせる」要因のひとつになっていると思う。


今すぐそんな全方面への配慮に満ちたコンセンサスを築くことはまあ、無理である。

まだまだ我々は差別というものを認識できるようになりはじめたばかりでしかない。

これからまだ、ガツンと殴られるような経験を何度もしながら、偏見と差別に満ち溢れた社会から継承してしまった習慣や価値観を修正していかなければならない。

安定的なコンセンサスはその先にこそあるものではないだろうか。

だから今それがまだ存在しないことをもってへそを曲げ、それを存在に至らせるための努力を放棄することを正当化しないでほしい。

 




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