大山さんの「毒親問題」


長い間、この記事で気になった点について、何か言うか、何も言わないかでとても迷っていた。
https://biz-journal.jp/2019/01/post_26314.html

悩んで、のべ2万字ほど書いては消し。
ごく身近に、似たような状況があり、それと重なり続けるせいで、客観的になりきれず。
これに関しては自分でも思いこみや誤解があるだろうという感触もどこかにある。

ひょっとすると、清水さんサイドを利することになるかもしれないし、人を傷つけることになるのかもしれないのだが。

それでも、何か言わずにはおられず、今日ここに至る。




気になったのは、高校の時のタバコのエピソードである。

まず、大山さんのお母さんがいかに悪くないか、という釈明の多さと周到さにひっかかった。
高校生の娘がタバコを吸っていた、という十年前のエピソードが、「お母さんが傷ついた物語」と化しているのにも違和感をおぼえた。
以下は記事からの引用。


玄関前にタバコの吸い殻が何本も落ちていて、日増しに増えていくのは気づいていましたが、向かいの家の男の子が捨てているのだと思い込んでいました。莉加のことは信頼しきっていたので、疑うことはありませんでした。

 ある日2階に上がっていくと、莉加が空き缶を片手にタバコを吸っていました。莉加は幼稚園の時、血小板減少症候群で大病をしてるので、タバコなんて有害物質を体の中に入れてほしくないと怒りました。

 1階に降りてからも、「ママは莉加のこと信じているのに、なんで? 病気で死にかけたのに細い血管の中にそんな有害なもの!」とか、「莉加のこと信じている大ママを裏切るようなことして!」と言いながら、ほおを1回、肩や腕を殴りながら、お互い泣きながら向かい合っていました。

「ママはこんなことさせるために莉加を産んだんじゃない!」と泣きながら言い、お互い泣きながら「二度とタバコは吸わないで!」と言い、「わかった、ごめんなさい」と莉加は謝りました。



そもそも、導入部分の吸殻のくだりを読んでわたしがまず思ったのは、大山さんは吸殻を隠さなかったんだな、ということだった。
わたしも高校生の時タバコを吸った。わたしの友人たちもタバコを吸った。
その経験から言うと、どれだけ間抜けなタイプでも、家で「親から隠れる」意識を持って吸っていれば、吸殻の始末はした。(でも匂いでバレる。)
吸殻の始末をしようともしないという事は、タバコを吸ってることを隠す気自体がないのだ。それはほぼ確信できる。

家族もスモーカーだらけで親も無頓着という状況ならまだしも、自分の喫煙など絶対受け容れられない事が最初からわかりきっている家庭環境で、これみよがしに玄関前に吸殻を捨てていた高校生の大山さんは、タバコを吸いたかったというより、親にタバコを吸って見せたかったんじゃないだろうか?

そう思っていたら、「二階に上がっていくと、莉加が空き缶を片手にタバコを吸っていました」と書かれていて、やはりそうかと妙に納得した。
親に隠れてタバコを吸うときは、窓際で、親が二階に上がってきたらすぐタバコを捨てられる状態で吸うもんである。(それでも匂いでバレる。)
親が扉を開けた時点でまだ空き缶を片手に、もう片方の手に火の点いたタバコを持ってるということは、親が近づいてくる足音を聞きながら、タバコを捨てもせず、空き缶を隠しもせず、慌ててデオドラントスプレーを部屋中に噴射するような事もせず、(たぶん心臓をバクバクさせながら)待ち受けていたということだ。


初めて読んだとき、タバコと空き缶を持って無表情にお母さんをじっと見つめる高校生の大山さんの姿がありありと浮かんだ。
その姿からは、何か言いたいけど言えない事を抱えているオーラをビシバシ感じた。

が。
大山さんが何を言おうとしていたのか、お母さんが気にしたっぽい形跡は、一片たりとて見出せなかった。



一瞬、「なんで?」と問うてはいるものの、
「ママは莉加のこと信じているのに、なんで? 病気で死にかけたのに細い血管の中にそんな有害なもの!」
という具合で、答える余地を与えない表現しか記されていない。

お母さんが大山さんを信じていたという表現は、この短い文で3回も登場する。

吸殻を見てもそれが娘だと気付かなかったのは、娘を信頼しきっていたから。タバコを吸っている娘を見て激昂したのも手を上げたのも、幼い頃大病を患った娘を慮り、娘を信じていたから。
この短いエピソードにおいて、お母さんの言動で批判の対象になりそうなポイントポイントには先んじて、「娘を思いやるがあまりです」という解説が立てられている。

だけど大山さんの気持ちに関しては、何一つ触れられていない。
何を言ったか、どういう様子だったという描写すら、ほとんど出て来ない。
大山さんが何を感じていたのか、何を考えていたのか、お母さんが一度として関心を示した気配すらないまま、大山さんが「わかった、ごめん」と恭順に転じたら話が終わってしまっている。全くもって、問題にされていない。誰も気にしていない。



なんかちょっと、大山さんが喫煙に走ったわけがわかるような気がした。



この話をお母さんから聞き取ったというお父さんもまた、それに対して何一つ懸念や疑問や違和感を抱いている様子はなく、別件に対してもとにかく全面的に、「いかにお母さんに悪意がなかったか」という説明を続けていた。


お母さんにどういう意図があったかと、そこで何が言われ行われたかと、大山さんがそれをどう受け取ったかはそれぞれ別の問題である。
「差別する側に差別してやろうという意図があるわけではなく、様々な事実誤認から、自分たちは事実に基づいた正当な要求をしているだけだと信じている」というタイプの差別がよくあるように、そして、そういう差別がしばしば故意の差別より大きな損害を与えるように、お母さんにその意図がなくても、大山さんを深く傷つけていた可能性なんていうのはいくらでもある。
しかし大山さんのお父さんは(そして記者氏も)、「お母さんが何を意図していた(とお母さんが言っていた)か」について話して、満足しているように見えた。
満足、と言うと語弊があるかもしれないし、そういう印象もお父さんよりも記者氏の書き方の問題かもしれないのだが。

たとえばこんな感じで。

同ブログの大山さんの文章には、母親の発言として以下のものがある。
「あんたを生む時はへその緒が首に絡みついていて本当に大変だった。殺されるかと思った」
 これに対して、父親は言うのである。
「へその緒を首に3回転くらい巻いてたのかな。なかなか出てこなくて難産だった。大変な思いをして産んだんで、母親にとってはよけいにかわいい娘なわけじゃないですか」
 これもまた、実際にあったことが改変されている可能性があるのだ。

改変?
それは、清水氏が?
……どうやって?

「実際にあったこと」や「言われたこと」に対する「解釈」なら誘導するのは簡単だ(わたしも日々の生活の中で半分無意識でやったりやられたりしている)けど、実際にあったことや言われたこと自体の記憶を改変するなんて、できんの?っていう。

というか、「母親にとってはよけいにかわいい娘なわけじゃないですか」というのは、そうお父さんが思っている、ということなのか。お母さんが「だからよけいに可愛い」と言っていたという事なのかすらこれじゃわからないし。


だから、それが大山さんにも伝わっていたのか、実感できるものだったのかも全くわからないままだし。


ましてや、『大山さんがお母さんに「あんたを生む時はへその緒が首に絡みついていて本当に大変だった。殺されるかと思った」と言われた事がある』可能性への否定としてはすごく弱くて、「だから改変された可能性がある」と胸張って繰り返せるほどの材料にはちょっと見えない。

といった具合で、大山夫婦だけでなく、記者氏からも大山さん本人が置いてけぼりにされている感がすごかった。



これは、大山さん自身が書いたブログをひとつとして読む前の事である。




読んでみて。


理路整然としていて、頭のいい人だったんだなと感心させられた。
毒親問題に関する本を12冊も読んだと後で聞いて、その年齢に見合わない冷静さに見えたものに納得させられた。



Biz journalの記事では、たばこのエピソードの前フリが以下なのだが、

そこには母親から、「あんたなんか産まなきゃよかった」と言われたという記述がある。大山さんの自死のショックによって、母親は現在、外に出かけられない状態である。思い当たる出来事として、父親が母親から聞き取った内容が以下のものである。06年、大山さんが高校3年生の時のことだ。


大山さんのブログでは、

「あんたなんか産まなきゃよかった」
風呂場で蹴られて背中に吐き捨てられた言葉、今でも覚えています。

とある。

風呂場だ。

ふつうに考えて、たばこの話とは別件ではないのか。

この前後の脈絡が無視され、「こんなことさせるために莉加を産んだんじゃない!」という言葉が、「あんたなんか産まなきゃよかった」に改変されている可能性がある。

と記者氏は言っているが、それこそ大山さんのブログの文脈からこの台詞だけを切り抜いて、それを無理矢理「こんなことさせるために莉加を産んだんじゃない!」に繋げているようにしか見えず、ちょっと強引すぎないか、と思う。


大山さんの「毒親問題」に関するブログを読んでいくと、Biz-journalの記事で、主にお父さんとお母さんの言葉で語られた大山家の様子からわたしが読み取ったものと、大山さんの訴える「毒親問題」像はかなり高い精度で一致した。

だからわたしは、大山さんの『毒親問題』は、実際に存在したんだろうと思っている。

自分の予想と一致したからじゃなくて、こういう高い精度の一致が偶然だとはちょっと思えないから。

清水氏が洗脳あるいは誘導によって作り出した問題だと全く思えないのは、大山さんの語る「毒親問題」が、清水氏の語るものより何倍も理路整然としていて力強いものだからである。
清水氏が細かく大山さんの記憶を「改変」したのなら、そこで描かれるのは清水氏によって作られた物語であり、そうすると当然清水節を帯びることになる。でも帯びていない。

大山さんは基本的に、自分の好ましくない行動・思考パターンに、根っこで支配している強迫観念を見出し、それをご両親の関わる経験と紐付ける、という事を繰り返している。
大山さんが「毒親問題」についての書く文は基本的に、いたずらに親を攻撃するためではなく、自分が柵から解放されて自由になる事を目的とするスタンスのものだと理解する。
それは論理的にもきれいにまとまっている。清水氏にこのシナリオが書けるとはちょっと思えない。



ただその一方で、「毒親問題」の「程度」についてはわからない。
先述したように、人が自分の記憶を思い返すにあたって、それをより悪く解釈するように誘導するのは割りと簡単である。睡眠不足や疲労の蓄積にもその効果がある。
あるいは、お母さんがお母さんなりに愛情を示したときの記憶などは、「わかってもらえない憤り」みたいなものを長く抱えていたりすると、あっても思い出せなくなったりはすると思う。
大山さんの文章も、古いものほど透明感が高く、安定性を感じさせる。2017年夏に書かれた「決別の手紙」は、その一年前のものに比べると、悲壮感を帯びているように見える。

大山さんの「毒親問題」は、「まあ世の中でも4、5人に一人は通る道」というレベルの話だったのが、異常なストレス下でいじり倒されることで極端に悪化したものだったのかもしれないし、それとも、本人の言っているように、深刻な自己防衛力の低下をもたらすほどのものだったなら、それが訴えにあったようなパワハラに対しても彼女を弱くするような影響を見せたかもしれない。

なんであろうが、パワハラの訴えに関しては、事実なら別に健全な精神性の人だっておかしくなったり自殺したって不思議じゃない、完全なる虐待なので。


「毒親問題」と呼ばれるものが、大山さんが死を選ぶにあたってどれだけのどのような影響を与えたかは、わたしにはさっぱりわからないし、それに対して予想をめぐらせる気もない。
清水氏が他者に虐待をくわえたのなら、それに対して相応の制裁を受けるべきだろうと考える。

それとは別の話として、大山さんは最後まで、理解されたいという望みはもっていたんじゃないかと思う。遺書に家族の事が書かれていたというのは、そのあらわれじゃないだろか。

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