グレタ・トゥーンベリ叩きで懸念されるもの


わたし自身、あの手のいい子ちゃんにはイラッとする事も少なくない。
彼女がニューヨークまでヨットで行ったというニュースが流れた時には「おーおー優雅なことで」と妬みたっぷりに思った。
だから、自分が身を粉にして働いている間、大西洋を優雅に航海していたガキに、自分の生活習慣について文句をつけられても反感しか抱けない、という気持ちもよくわかる。
彼女が一部のロビー団体的なものに利用されているというのは、実際そうだろうと思う。

のだが。
それと、彼女の主張の正しさはまた全くの別問題である。
反感から入ったとき、主張の粗探しから入るのはまあ当然だし、彼女の主張が完璧だなんていう気は全くないのだが、この件ではその粗探しにおいて、環境問題に対する鈍感さや無知から来る完全な言いがかりが、非常に大きな存在感を放っているのだ。

たとえばこれ。



中国の人口は14億、インド13億。対してアメリカは3億3千万。

人口比にくわえ、過去の積算排出量を考えると、アメリカがまず問題になるのは当然のことなのである。

しかし、この「当然のこと」が当然と認められるようになるまでには、長い道のりがあった。
ほんの一昔前までは西欧では、「自分たちはゴミの分別もしないけど、中国やインドやアフリカのことは非難しよう」という、帝国主義丸出しの姿勢のほうがよっぽど一般的だったのだ。
昔から環境保全活動をしてきたような人たちの間では、まず自分たちの生活習慣から変えるほうが主流だったと思うが、十数年前、それに乗っかりはじめた政治家や企業やメディアは全くもってそういう姿勢を持っていなかった。
誰も、自分の支持者に、視聴者に、読者に、クライアントに、「お前の生活習慣を変えろ」とは言いたがらなかった。反発を食らうのは必至だからだろう。
そういう空気の中で、メディアは平気でこのグラフのように、現在の排出量だけを切り取ったものだの、石炭発電所の数だけを比較したものだの、「中国とかインドとかアフリカに何とかしてもらわないとね」という結論を前提としたデータだけを取り上げていた。

「これだから白人様は」と、よく思ったものだ。
しかしそれ以来、ソーシャルメディアによって世界は狭くなり、目覚ましい発展の結果数多の発展途上国から大卒の知的労働者や留学生たちが先進国にやってくるようになり、先進国から現地に赴く研究者や活動家たちの数も増え、彼らの連携が大きな成果を出して政治に影響を与えるような経路も作られたりする中で、発展途上国側の
「ふざけんなよ」
という主張が、国連のような場所では当たり前だと受け容れられるようになっている。

積算、あるいは歴史上の排出量とよぱれるのは要するに「これまでどれだけ排出したか」という概念である。
これも、先進国の責任の重さを明確にし、発展途上国に対する公正さを担保する上で重要だと考えられる概念である。

今では、排出量を評価するときには、これらを考慮するのが当たり前になってきている。排出抑制が、先進国が途上国の発展を妨げるための言い訳にされてはいけない、という、これまでには平気で踏みにじられてきた当たり前の主張が通るようになってきているのだ。

その悪名高き白人様たちすら、肉を食う量を減らしたり、飛行機を可能なかぎり避けたり、自転車に乗ったりして、健康のためというだけの範囲を超えた、生活習慣を変えようという努力に広げはじめているというのに、自分と同じ日本人が、完全に周回遅れな勘違いに走るだけでなく、それを軸に何歩か先にいる少女が間違っていて愚かなのだという仮想現実を共有し、上から哀れんでみせたり、それだけで中国のスパイ扱いしたりしているさまを目の当たりにするのは、ひどく痛い。

これも痛い。
発展途上国で温暖化がどういう被害を出しているか、国際ニュースに少しでも注意を払っていれば、最前線で最大の被害を受けているのが彼らだという事は知っているだろう。
温暖化の被害が、排出に対する責任の最も少ない、最も発展の恩恵を受けていない人々に最も大きく出る性質を持つと知られていることも何度となく耳にしているだろう。
グレタと同じことを、モルディブ他太平洋地域の国々他、気候変動の影響をモロに食らっている国々が必死に訴えてきた事も知っているはずだ。
つまり、ふだんはそういう事を全く気にしてもいないくせに、この子を否定するためだけに、まるで自分は発展途上国の人々を尊重する価値観の代弁者みたいな事を言ってるわけだろう。
一体なんだってそこまで?

災害インフラの整った先進国日本だから、台風による死傷者もごく僅かで済んでいるが、モザンビークではカテゴリー2のサイクロンで千人以上が死亡し、数十万規模の難民が発生した。
1998年には一万人の死者を出した嵐と同規模のサイクロンが6月にインドを襲ったが、今回の死者は8名だった。インフラ整備でそれだけ死傷者を減らせる。
そのぶ厚いインフラの壁に守られてぬるま湯に浸かっている人々に対して、壁の外で千倍の死亡率に曝されている人々が、「本気でやれや」と先進国の大人につきつけている少女と、その少女に勘違いした言いがかりをつけている大人、どちらと共感するというのか。


自分の生活習慣を否定されるというのは、イラッと来る話である。
それが喫煙だろうが皿の洗い方だろうが味噌汁の味のつけ方だろうが、毎日毎日(あるいは毎週)何年も何十年も、何の疑問も抱かずに当たり前にやってきた事や、場合によっては良かれと思って犠牲を払ってやってきたような事などを、「間違っていた」と言われると、自分を少なからず否定された気分になる。
だから反射的に相手を否定したくなる心理は自分も持っているが、その一方で、自分の慣れ親しんだものとは異なる、新しい生活習慣やその内包する価値観に柔軟でいられることは人生を豊かにしてくれる。結婚生活も、あるいは形の異なる共同生活も、ずっとやりやすくなる。
そして生活習慣を変えることは、実際やってみさえすればすぐ慣れることも多い。
だからなんというか、もう少し理性的な対応ができんかな、と思う。

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