小児性愛の批判にあってほしい慎重さ

ペドフィリアの問題は難しすぎるので、あまりコメントしないできた。

子どもの性的虐待は、人間として間違いなく絶対にやっちゃいけない事だとわたしも激しく強く思うんだけれども、小児性愛が性的指向なのか嗜好なのかはわたしにはよくわからない。

イギリスのメディアだと、ペドフィリックな事件がバンバン取り上げられるようになって、それに対する世間の怒りが燃え上がって、モブリンチとかになって、今度必死で「治療」してるのに迫害され続けて自殺したりするペドフィリアの側の苦しみも取り上げられるようになっていたりする。

そういうのを見ると、己のセクシュアリティに対して「治療が必要な病気」というアプローチにLGBTの人々がどれだけ苦しんできたか、と重なる部分があり、「世間が受け入れられないものだからという理由で人のセクシュアリティそのものを異常とする」のは本当に正しいのだろうかと悩まずにいられない。

四谷三丁目さんの文は好きで、今回のペドフィリアの社会的責任に関する文も、半分以上はうんうんと頷きながら読んだ。でも、「ゲイは性的指向です、ペドフィリアは性的嗜好です」という切り分けに関してはひっかかった。一方は容認され歓迎されるべき人のあり方で、一方は社会として拒絶して当たり前のものとする切り分けの基準がどこに根ざしているのか、よくわからなかった。

同性愛もまた、百年、二百年前の欧米などでは多くの人にとって、「人間としてやっちゃいけない(と神様が言った)こと」という感覚で捉えられていた。法律で禁じられていることも多かった。だからゲイもまた、「黙って思っている分には問題なくても、それを人に知られたり思いを行動に移したら犯罪」だった。いまだにそういう感覚を維持しているコミュニティも存在する。

それは、現代の我々がペドフィリックな犯罪に対して持っている拒否感や嫌悪感と、そんなに質の異なるものなのだろうか?

我々の多くはこの強い拒否感・嫌悪感を持っていて、それを至極正当なものだと感じている。
同時に我々の多くはLGBTに対する迫害が間違ったものだったとも感じている。

「ゲイは性的指向、ペドフィリアは性的嗜好」という切り分けは、そういった我々の多くがもつ感情をうまく正当化してくれる「適当な理屈」でしかないのではないだろうか。

そういうものを用いて、自分たちの感情は正しいんだ、と短絡的に信じてしまってよいのだろうか。

我々はもっともっと、ペドフィリアの何がどこまでいけないのか、なぜいけないのか、何なら許容されるべきなのかを、相手を言い負かすためではなく、社会としてうまく機能できるよう、声の小さな人に我慢を強要することのないよう、慎重に、掘り下げて議論し、まともな合意を形成しなければならないのではないだろうか?

次回、「ペドフィリア他の何がなぜどこまでいけないのか」について、個人的に気になっていることの話をします。

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