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ぼくの旅路 #4

 
【 はじめての海外一人旅:帰国】


当時のわたし:20歳/大学生 in TOKYO
 

 
 ロンドンでの細胞が沸き立つような2ヶ月もあっという間に過ぎ去り、帰国の日を迎えました。あっという間と言うけれど、これ以上ないぐらいに多くのことを学びました。日本にいる頃の、同じ2ヶ月という時間を思い返してみれば、それは、なにかひたすらに平らな地変線を眺めているような、気持ちになってしまいます。。そこに、ランドマークとなるものを、なかなかに見つけられません。しかし、これとは対照的に、この2ヶ月は、さまざまな思い出が残る景色が、そこに広がっています。無数に散りばめられた一つ一つの事象に、鮮やかなディテールを想い描くことができるのです。こころの中のまっさらな大地に、雨が降り、草木が生え、繁り、光りの陰影が生まれてきたのです。

 ロンドン・ヒースロー空港にて、帰国便の搭乗手続きの列に並んでいた時のことです。そこで、ぼくの人生を、さらに、軌道修正をする事件が起きました。

 チェックインカウンターに並んでいると、「搭乗便の機体にトラブルが発見されたため、このフライトは延期されます」とアナウンスが流れました。みんな「???」となって、列に並んでいた日本人同士、お互いに「どういうこと?」と言葉を交わしました。大学の春休み期間ということもあって、ぼくと同い年のぐらいの日本の若者も、そこに、少なからずの数がいました。印象的だったのが、そのうちの何人かは、この飛行機に乗り遅れることで、帰国日翌日に控えていた入社式に出れなくなってしまうようで、頭を抱えながら国際電話を掛けに行っていたことです(当時は、海外での携帯電話使用などありませんでしたから、空港の公衆電話です)。その反面、ぼくはお気楽な学生の身であり、「ラッキー、おかげでもう一日こちらにいられるぞ、ガッツポーズ。しかも航空会社の手配で立派なホテルにタダで泊めてもらえるみたいだ」と、心躍りました。

 その晩のホテルのレストランでは、一緒に飛行機に乗る予定だった同世代の日本の若者たちの輪が生まれていました。それぞれの旅の話に耳を傾けます。その輪の中に、ぼくよりも一つか二つ年上の、小柄な女性がいました。彼女の話に耳を傾けていると、なんと、なんと、中国からずっと陸路でユーラシア大陸旅をしてきたとのこと。さらに詳細を聞いてみると、本人が中国留学中に、旅の日本人男性と出会い、恋をして、そのまま彼と一緒に旅をしてここまで辿り着いたのとのことです。

* 

 ぼくは、日本に帰ったら、それは鼻高々に、この2ヶ月の海外での武勇伝を、友人たちに語るつもりでした。しかし、そんな鼻っぱしを、この小柄な日本人女性に、見事にへし折られました。実際にそんな旅をしている人なんて、映画や本の中の世界だけしか、ぼくは知らなかったのです。その子の話を聞いたときにすぐ思い浮かんだのは、当時のTV番組やってた、猿岩石のヒッチハイク旅行でした。なので、実際にそんな旅をしたことがある人が、不意に目の前に現れ、そんな人が実在することに心底ビックリしました。しかも、「日本人」「同世代」 「女の子」、この3つのキーワードが、さらにその驚きを圧倒的なものにしていたのです。「同世代」という言葉の連想からなのか、「負けた」という言葉が、こころの中で響キきました。それは、ぼくがロンドンに語学留学に行く動機となった、高校時代の仲良しの同級生の女の子のカナダ留学の話を聞いて、「負けたくない」と思ったのと、同じ声です。しかし、今回のヒースロー空港で出会ったこの女性に対しては、「負けたくない」ではなくて、「負けた」と、はっきりと白旗を挙げている自分がいました。
 
 そんな若い頃の自分の心境を思い返してみると、常に、「一角の人物になってやる」という気持ちがあったのだと思います。それは、真っ平らな景色の中、自分が立っている足元がどこなのか、自分でもよくわからなくなってしまっていること。この、自分という存在を、他者に見つけ、認めてもらいたい、という気持ちであったのだと思います。そして、人と違った経験をすることで、沼地からすこしでも這い上がり、すこしでも高みに立ち、優越感を持ちたかったのだと思います。いや、もしかしたら、その気持ちをより深く掘り下げれば、他人よりも優れたいという気持ちよりも、これまでの大学浪人生活での葛藤や、さまざまな人生の辛かった経験から、「周りに置いていかれたくない」という気持ちだったのかもしれません。周りの人たちが、着実にそのレールを進んでいくその背中を、後に残され見つめている悔しさ。みんながさっきまで居たの場所に、今は一人取り残された、寂しさ。そのことを、身に染みていたのです。そんな、優越感と劣等感の意識の狭間から、「負けたくない」という言葉が出てきていたのです。しかし、それは、ぼくを新しい世界へと導いていった、モチベーションでもあったのは、確かです。

 その晩、はじめて、この女性の口から「バックパッカー」という言葉を聞きました。リュック(と当時のぼくは呼んでいた。なのでバックパックという響きもぼくにとって耳新しいものだった)一つ背負い、世界中を貧乏旅行している人たちがいるとのこと。それが、「バックパッカー」。ぼくにとって、そのような旅は、、映画や本のなかで知っているアウトローたちだけの世界であり、なんだか、万華鏡を覗きこんで遠い世界を見ているような、輪郭のはっきりしない逸話の世界だけの話しでした。しかし、この目の前に佇んでいる、小柄な、同世代の、日本人女性。彼女から語られた実体験談。それは、その逸話を、自分にとっても実現可能なものであるという、くっきりとしたフィルターに、切り替えてくれました。日本への帰国に際して、「また、海外に行きたい」という気持ちを高ぶらせていましたが、彼女との出会いによって、「バックパッカー」「旅」という新しいキーワードが付け加えられたのです。「バックパッカーとして、海外を旅して周りたい」、これから目指していく方向が、より明確に照らし出された気分だった。

 さて、翌日には、それぞれ無事に、提携の航空会社に振り分けられ、帰路へと着くことができました。ぼくは、その旅の達人の女子と、もうひとりの日本人の年上の男性と特に仲良くなって、3人で搭乗手続きの列に並びました。チケットを受け取り席を確認したところ、一人だけエコノミークラスの席が足りなかったのか、同じ便のビジネスクラスに振り分けられていたのです。「それなら、残り2人もビジネスクラスでお願いしますよー!」とごねていたら、なんと、本当に3人揃ってビジネスクラスの席を用意してくれました。これも、旅のよい思い出です。

 本当に、不思議なものです。もし、あの晩に、その女性から旅の話を聞いていなければ、ぼくは、これほどまでに旅をしていなかったかもしれないと思うのです。あの日、飛行機が遅延したことは一見マイナスのことに思えてしまうけど、そのおかげでこんな出会いに恵まれたのだから、本当に、不思議なものです。そんな、不思議さの確かさには、魅了される何かが漂っていました。その後、日本の大学生活に戻ったものの、異国の地で感じた、あの不思議な確かさが漂う空気を、より深く吸って、より身を委ねていきたい思いは、募っていくばかりでした。その欲求は、その後のぼくを、さらなる旅の世界へと導いていくのでした。


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