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馬日記・その1



2004年3月10日(水)
ヒューストン(USA)⇨ サン・ホセ(コスタリカ)の飛行機の中にて


 飛行機の中は依然と3月10日。ぼくの3月10日は、日本を出発してから、日付と逆行して空を飛んでいるために、17+24=41時間もある。

 振り返れば、大学生の間に随分と旅をしたものだ。こうして、大学の春休みや夏休みの度に飛行機に乗ることは、バイクに乗って大学に通っていたのと、あまり変わらない感覚になっている自分がいる。夜寝て、朝がくれば、バイクにまたがり大学へ向かう。それと同じくに、いっときの大学生の日常を過ごし、長期休みが来るた度に、飛行機に乗り旅をする。そんな感覚か。そうは言っても、やはり新しい旅のことを考えるとワクワクとする自分がいる。そうか、ただ、飛行機に乗るという行為に新鮮味がなくなっったというだけのことなのかもしれない。

 しかし、今回の旅は今までと状況が全くに異なることを思うと、お腹の底がキュッと掴まれたような、重い感覚に襲われ圧倒される。もう、この旅の出発を、ただ「楽しみだ!」とだけは、言っていられない。今までのいわゆる大学生のバックパッカーの頃は、後に残していくことなんて気に留めていなかった。家族、彼女、友達、家、そして社会的身分。旅はどうせ、一、二ヶ月のもので、それらは帰ってきても、いつも当たり前のようにそのままにあった。しかし、今回は、大学を卒業後の進路として選んだ旅なのだ。もう、帰ってきても大学生という社会的身分はない。旅して帰ってきても、この社会に再び適応できようか。その頃には、見事に就職した友たちは、もう随分と社会的経験を身につけ随分と差をつけられてしまっているのではないか。そんなことから(いや、これが一番だろう)、親や、周りの大人たちは、今回の旅をこうも反対してくれていたのだろう。

 はじめて、次に日本に帰ってきた時には(それは、いつになるだろうか?)、今あるものは全て変化してしまっているのだと痛切に感じる。そして、不安の念に襲われる。いや、日本にそのままいたとしても見えづらいだけで、日々、一瞬一瞬変化しているものだけど。選ぶことの意味。何かを選んだら、何かを諦めなければいけない。

 ここまでずっと、バイトをしたり、卒業のための勉強をしたりと、この春からコスタリカに行くために、これ以上ないぐらいに精一杯頑張ったつもりだ。ようやく卒業も決まり、バイトもやり切って、晴れて思いっきり旅を楽しむつもりだった。しかし、直前に、祖父が危篤となったこと、大好きな彼女ができたことなどがあって、一度は旅を諦めた。だけど、諦めなければいけないと思った理由はなんであれ、諦めたと思うと、本当に悔しくて仕方なかった。やはり、こころは旅をしたくてしょうがなかった。彼女からの最後の手紙には「焦っている」と書いてあったけど、その通りで、祖父のこともあり、今は日本を離れるタイミングではなかったのかもしれない。でも、ぼくは、そんなことが起きるずっとずっと前から、もう自由に旅をしたくてしょうがなかったんだ・・・。

*当時(25歳)の日記に綴られた若い自分の言葉に恥ずかしさを覚えながらも、加筆も加えて。

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