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馬日記・その9

2004年3月19日(25歳)
@ Rainbow Gathering in Costa Rica

 今日は新月だ。マヤ・カレンダーではNo.130で、ちょうど真ん中に来る特別な日らしい。誰かがフードサークルの後に、「この特別な日に、ヒューマン・マヤ・カレンダーのセレモニーをやりましょう」とアナウンスをしていた。

 馬に蹴られた容態も、2日が経ち、字は残るものの、体調はだいぶ回復してきた。よかった。

 お昼は、ここで出会った大阪からの二人組のたいちとゆうすけと一緒に、マヤカレンダーのワークショップへ行った。日本にいた頃から、マヤ・カレンダーの響きにとても惹かれているが(しかも、ここ中米はまさにマヤ文化の地!)、なかなか、実感を持ってその意味を感じることができない・・・。ワークショップもなんだか、よくわからなかた・・・。

 今晩のフードサークルの後には、いつもの盛大なジャンベのビートと、焚き火を囲んでの踊りはなかった。その代わりにShantii(ピースフル)な歌があちらこちらから聴こえてきていた。

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 ぼくは、一年前、ブラジルではじめてRainbow Gatheringと出くわした時の大きな衝撃の一つに、この夜の大きな火を囲んでのドラムサークルがある。目の前で叩かれる、それは多くのジャンベのビートに魂が震えた。焚き火に照らされながら、みなみなが踊った。頭上には、果てしない星空が広がっていた。それまでも、ぼくは東京の日々で、週末にテクノやトランスのクラブやレイブ・パーティーにいって踊るのが大好きだった。しかし、それでも、夜空の下、ドラムの生の音、火を囲んでの命の鼓動を感じて踊った衝撃は大きかった。生の音といえば、素朴な誰かのギターでの弾き語りにも、こころを打たれる場面が多々あった。誰かが、草原に座って歌を歌っていると、周りに人の輪が生まれ、遠くからフルートの音がやってきて、いつの間にか楽団となっていた。ここでは、みんながミュージシャンだった。誰もが、いのちの喜びを奏でる自由を知っていた。こんな人々に囲まれての日々より、ぼくも自分で奏でてみたいと思うようになった(ここで告白すると、10代のころカラオケでの音痴ぶりを友人たちに指摘され続けて、音楽に対してトラウマに近い苦手意識があったのだ)。このブラジルでの経験以降、東京の日々に戻っても、以前ほどには、アンダーグラウンドの世界に音を求めなくなっていた。それは、音も環境もよりオーガニックなものを求めるようになっていた。そして、自分でも音を奏で始めていた。

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 夕食を食べ終わったところでぼくたちの周りでも、自然と音楽が始まった。クリスティーナがフルートを吹き、ドラムや、さまざまなパーカッション楽器が加わった(Rainbowの人たちは、必ずカバンやポケットの中に、何かしらの音を鳴らせるものを潜ませている・笑)。ぼくもディジュリドゥを吹いた。やはり、自分で音を鳴らすのは楽しい。そして、それが、皆とグルーブやハーモニーを生み出すのは、至福だ。その感覚は、いつもの意識と違う場所で、皆と出会い直している気がする。

 こんばんは、至る所で小さな音楽の輪ができていて、それぞれに、心に沁みる歌を歌っていた。そんな、調べにこころ震え、ちょっぴりと感傷的にもなった。日本に残してきた彼女に会いたくなった。家族に会いたくなった。一度は危篤となったおじいちゃんの容態を思っていた。

 そして、そのピースフルな夜の調べのまま、人間マヤカレンダーのセレモニーが始まった。参加してみたものの、意味がよくわらず、そして、とても寒く、なかなか気持ちが入り込めず、しんどかった・・・。

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3月20日

 今日は正午まで、皆が沈黙を保った。みんなが沈黙を保つとはすごいエネルギーが生まれるものだと思った。この山には千人近くのRainbow Family がいる。皆が、世界平和のために祈り、静かに内省し沈黙をしている。言語や行動のエネルギーが止まり、意識のエネルギーがこの大地に高まっている。

 正午に、メインサークルに集まり、皆で手をつないて一つの輪を作る。そして「OM(オーム)」を唱えた。オームの音の帯がうねりな、その言霊の振動が空に昇っていくのが見えるようだった。

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 夕食後は、いつものようにメインサークルに残って音楽を楽しむことはせず、メメとベーカリーにお手伝いに行った。お手伝いしながら、クッキーをいっぱい食べた♡  よい大人たちがみんな、たまにのご褒美に甘いものがあると、子供のようにはしゃぐ様子はなんともかわいい。喜怒哀楽を共にして、どんどんと、本当の家族になっていっているようだ。

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