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悲しみを「受け入れる」ってなんだろうね

『受け入れるってなんだろうね』

彼女が亡くなった年の暮れ、一緒にお参りに行った友人がつぶやいた言葉のことを、それからずっと考え続けていた。

「受け入れる」という特段変わったわけでもない、自分でも何の気なしに使っていた言葉の意味が、いざ親しい人の喪失を目の前にしたときに、途端にわからなくなってしまった。

「やっと受け入れられたかな」
「時間が経てば受け入れられるよ」

決して他意はないはずの、こうした言葉の一つひとつが鈍く刺さって、誰とも話したくない期間がしばらく長く続いた。

冷静になって考えてみればあたりまえのことで、同じ経験をしても、感じ方、向き合い方、抱えるものの重さ、喪失から回復までの期間、プロセス、すべてが人によって違う。
そうなんだけど、私はどこかで同じ形、同じ重さを抱えてくれることを周囲に無意識に望んでしまってたのだろう。その「ずれ」に神経質になって、どんどん勝手にすり減っていった。

喪失の渦中にいるときに受け取ることのできる言葉は、ごくごく限られている。相手の言葉の意図を汲む余裕もないし、どんな言葉をかけられても、ささくれ立って過敏になった神経のどこかに引っかかってしまう。
差し出された言葉を受け取ってしまったら、喪失を「受け入れてしまった」ことになるのだと、どこかで思っていた。

不思議なことに、受け取ることはできなくても、見つけることはできるようで、本や詩集をめくっては、目が止まったページの言葉に救われていた。そのときに必要な言葉を、心が勝手に見つけてきてくれるようだった。

失ったもののかたち、重さ、痛み、自分の中で目まぐるしく変化する感情を余さず感じていくことは、真っ暗な中、出口が見えない道を歩いているようで、途中何度も逃げ出したくなった。
いま自分がどこにいるのか、どこに向かっているのか。いつ終わるのかもわからず、誰にも肩代わりしてもらうこともできない、宇宙空間にひとり投げ出されたような、絶望的に孤独な時間。
この時間をなんとかしてくぐり抜けることが、回復のために必要なプロセスだった、と思えるのは今だからこそだ。

受け入れたからといって泣かなくなるわけでもなく、ましてや悲しみが消えるわけでもない。悲しみはどこにも去っていかないし、失ったものが元のかたちに戻ることもない。
でも、それでいいんだよ。自分の中で悲しみが生きていけるように、なんとか居場所を見つけてあげられたら。

傷つきたくないから人目につかぬ奥深い場所に隠していた悲しみを、明かりの下に引っぱり出して、息ができるようにきちんと居場所を与えてあげる。取り除くことも、何かで埋めることもしなくていい。
自分の人生を前向きに歩みながらも、悲しみを抱え続けられる状態でいられるようになることが、私にとっての「受け入れる」ということだった。


先日、彼女がいなくなってから二度目の暮れに、年越し蕎麦と大吟醸を手土産に会いに行った。
よく一緒に過ごしていた年末のことを思い出す。師走の寒空の下、終電を逃すまで江戸城外堀ウォーキングと名付けた散歩(約16km)をしながら、都知事になったら江戸城を再建する、みたいな話をしてゲラゲラ笑い合ってたなあとか。
悲しみに引き摺り込まれていたときは、こうした楽しい記憶を取り出すことがうまくできなくて、触れようとしても感情の波に押し返されていた。
時間がかかったけど、ここまでくるのに諦めなくてよかったなあと、色んな思いを噛みしめる。

亡くなった人の止まったままの時間と、自分が過ごしている時間のずれは、これからも歳を重ねていく度に、少しずつ大きくなりつづける。
この事実がどうしようもなく寂しくて、ふとしたときに心をキュッと冷やすけれど、その度に過ごした時間の記憶が、冷たくなった心をまた温め直してくれる。

もう二度と同じ思いはしたくないと思っていても、これからも必ず、大事な人がいなくなってしまう日は来る。どんなに失いたくないと思っているものでも、自分の意志とは関係なく、突然奪われることもきっとある。

失って、回復して、また失って、また回復する。
回復するといっても、失う前の状態に戻ることはなくて、失ったまま、また歩き出す。
その繰り返しを、どれだけ時間がかかったとしても続けていく。


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