一年半、書き続けた結果の文章(別記事用)

こちら、以下の記事用の文章です。

何かの手違いでこの場所にたどり着いてしまったかたは、こちらを先にご覧ください。

本文

 国立魔法大学校――。日本国内で唯一、『魔法』を学ぶ為に造られた学校。

 一口に魔法の道へ進むと言っても、その方向性は様々であり、よって同じ魔法分野といえど、大きく三つの学科に分かれている。

 全学科合わせれば、在籍する生徒数は三千人をも軽く超えるほど。

 魔法を行使して自らが戦う、魔法師を育成する『魔法師科』。
 この学院では一番生徒数が多く。核といった、国力を示す手段を持てない日本が、世界情勢が悪化したこの現状を生き残るため、世界のどの国よりも力を入れているのが魔法師の育成。

 魔法についての知識を深め、研究者を育成する『魔法研究科』。
 この学科へ入学する者の目的は様々だろう。しかし、魔法師を支える為には必要不可欠な存在であるという点においては、彼らは共通している。

 そして今、一枚の紙を見つめて溜め息を吐く、どこにでもいるような冴えない男、漣圭司さざなみ けいじが通う『人形師科』。

 パートナーである『魔法人形ウィズドール』を駆使して戦う、人形師を育成する学科であり、戦うという点だけで言えば魔法師とは似たようなものだと感じるかもしれない。

 しかし、その性質はまるで違う。実際に、魔法師と人形師が一対一で戦えば、その違いは素人目でさえハッキリと分かるだろう。

 魔法師よりは若干マイナー気味である人形師だが、そんな彼らを超えていくような勢いで高みを目指す、向上心の高い者たちが集まるこの学科にて――。

 一人と一体の人形は、大きな講義室にずらっと並ぶ長机、そのうちのひとつに肩を並べて座っていた。

「ごめんなさい。私が力不足なばかりに……」

 黒髪で身長は平均程度。学院指定の制服に身を包んでしまえばいよいよ、これといった特徴がなくなってしまう――そんな彼に向けて、弱々しい声で謝っているのは……。

 圭司よりも頭ひとつ分くらい身長が低くて、透き通る水色の長い髪を伸ばした、綺麗で清潔感のある女の子。服装はといえばこれまた、この学校指定の女性用学生服をしっかりと着こなしている。

 ただ、彼女は圭司と違って、規則で学生服を着させられている訳ではないのだが……何故だか、この学生服を好んで着ている。

「いや、納乃は悪くないよ。俺が人形師として未熟だから……」
 
 圭司は、納乃と呼んだ水色の髪を伸ばした少女へと言う。一見、ただの男女が話しているようにしか思えないだろう。だが、しかし。

……彼女は、人間ではない。

「いいえ! 私が出来損ないの人形なのが悪いんですっ! 圭司さんは何も悪くありません。いっそ、私のようなお粗末な人形なんて捨ててくれても――」
 
「――納乃ッ!」

 彼は、普段は見せない、怒鳴り声にも似た強い口調で、彼女の名前を呼んだ。その少女は、突然の出来事に思わず「ひゃいっ!」と、舌足らずな返事を返してしまった。
 
「自分を出来損ないだとか責めるのはやめてくれ。出来損ないは人形師である俺なんだ」

 そう強く言われては何も言い返せず、納乃はすっかりしょぼくれてしまう。

 ――そんな納乃の主である人形師。彼が両手で握り、見つめる一枚の紙には、この学校での生徒たちを格付けする評価基準において最低評価である『Fランク』という文字が、黒色でどこか寂しく刻まれていた。

「圭司ぃー。ランク考査、どうだったんだー?」
 
 教室の片隅で、納乃と共にFランクというその刻印を前にして、悔しさを噛み締めていると……空気を読まない、陽気な一人の男の声が飛んでくる。

「……何だ、一輝か。こっちは相変わらずだよ。お前はどうだった?」
 
「何だとはなんだ。ま、俺も去年から変わらず、ずーっとDランクだよ。いつになったら上位クラスへと上がれるんだかなー」
 
 彼は同じく、国立魔法学院の人形師科へと通う、同級生であり親友の新井一輝あらい かずき

 人形師であるからにはその隣にはもちろん、彼の人形である、ピンク色のツインテールにフリフリのメイド服みたいな戦闘服を着飾っている、納乃よりも少しくらい大人びた人形が付き添っている。

 彼の趣向全開なそのファッションを、ただ無表情で受け入れ、着飾っている……そんな彼女の名前はリリア。
 
 一輝とは中学、高校、そしてこの学校でも一緒のかなり長い付き合いだ。

 魔法の才能はないと自覚していた圭司が、この学校にギリギリながら入れたのも、一輝の助けがあってこそだったと思う。
 
 彼よりもさらに実力のある一輝でさえも、下から数えたほうが早いDランクであることが、全国から魔法の道へと進もうと集まって、厳しい入試でふるい落とされる――この学校のレベルの高さがひしひしと伝わってくる。

「マスターと私なら、次こそはCランクへと上がる事が可能でしょう。……おやおや。そこにいるのは、万年Fランクの納乃さんじゃありませんか。ああ、かわいそう、かわいそう……」
 
 一輝の隣についたまま、表情も変えずに納乃へと向けて口撃を仕掛ける、フリフリメイド服のリリア。

 それに対して、納乃は顔をタコのように真っ赤にしながら、リリアの分の感情まで吐き出すかのように激昂して。
 
「何を言いますか、この無表情コスプレ女! そもそも、あなただって私と同じ下位クラス、とやかく言われるほどの差なんてないんですからねーっ!」
 
「コスプレとは聞き捨てなりませんね、これは立派な戦闘服です。……それを言ったら、あなたは何故、学生でもないのに学生服を着てるんでしょう。それも立派なコスプレでは?」
 
「うーるーさーいー! 私が着たいから着てるんですうー! あなたには関係ありませんーっ!」

 ……こんな風に、主同士の仲は良いものの……。彼らの人形同士はとてつもなく仲が悪い。

 顔を合わせる度に、必ずどちらかの人形が攻撃を仕掛け、超展開のバトル物みたいな雰囲気になってしまうのが悩みだ。

「リリア、お前って奴は……」
「納乃も、その辺にしとけ。どうして二人はそんなに仲が悪いんだ……」

 そんな二体の人形に、人形師である二人も頭を抱えてしまっている。

 お互いの主に注意され、一旦休戦する二体の人形。それでも尚、互いに睨みつけ合うという冷戦状態は続いていたのだった。

 放課後の教室からは少しずつ人がいなくなっていく。帰るにせよ、サークルだったりがあるにせよ、教室にいつまでも居座る理由はないからだ。

 一分、一分と経つごとに、どんどん静かになっていく教室の中で、二人も帰路へつく準備を進めていた。

 一足先に、帰り支度を整えたのは一輝だった。

「んじゃ、俺はもう帰るけど……圭司はどうする?」
 
 一緒に帰ろうか……とも思ったが、よくよく考えれば、家の冷蔵庫がすっかり空っぽだったことを思い出す。

 このまま真っ直ぐ帰った所で、家には食べる物が何もない。つまり、外食にせよ、食料を買って帰るにせよ、どこかに寄らなければいけないことは確定してしまっているのだ。

「悪い、俺たちはちょっと寄り道して帰るよ」
 
「そうか。んじゃ、先に帰るとするわー。じゃーなー圭司、また明日ー」
 
 教室を出て行く一輝とリリアを、見送る圭司と納乃。……納乃は見送るというか、むぐー、あの女ぁーっ! と、まるで動物の威嚇みたいな感じではあったが。

 それから、新学期であるせいか大変な量になってしまったプリントをクリアファイルに適当に突っ込んで、こちらも帰り支度を整え終えた彼は立ち上がる。

 続くように、納乃も一緒に立ち上がる。人形師である彼とは違って、人形である彼女には荷物もないので、手ぶらだ。
 
「俺たちも帰るか。納乃、何か食べたい物はあるか?」
 
「え? うーん……何でもいいですよ。圭司さんのご飯は何でも美味しいですから」
 
 そうか。……言いながら、彼は教室を後にする。その後ろを、嬉しそうに納乃がひょこひょこと付いていく。

 傍から見ればその光景は、人形師とそれに仕える人形というより、ごく普通な男女の関係に近しくも見えるかもしれない。


 大学のキャンパスを出て、そこから一週間分の食料を買うべく、学校から少し離れたスーパーまで歩いてやってきた。

 交通機関を使うにも、微妙に躊躇ためらわれる距離だったし、少しでも食費を節約するためにわざわざ安いスーパーへと向かうのに、二人分の交通費を払うのは本末転倒だと言える。人形でも運賃はかかるのだ。

 彼の知っている中ではここが一番安くて、鮮度の良い食材が揃っているのだが、難点はやはり、そのスーパーが建つ場所だった。

 圭司けいじ納乃ののが住むアパートと方角が正反対であり、それでなくとも学校から中々の距離を徒歩で向かうのだから、帰る頃には間違いなく真っ暗になってしまうだろう。

 それでも、仕送りで細々と暮らしている彼のお財布状況を考えれば、少しでも食費を浮かせる為には仕方のない事だと割り切れる。

「それにしても、圭司さん」
 
 ここしばらくの食料となる肉や魚、野菜やらを粗雑に、次々と買い物カゴへと突っ込んでいく彼に向けて、不意に納乃が話しかけてくる。

 ん? と、買い物に夢中なせいか適当な調子で返事を返すと、立ち止まり、真剣な眼差しでこちらを見つめる納乃と見合わせる。
 
「どうして、人形である私を、なんといいますか……まるで人間のように扱ってくれるんでしょう?」

「と言うと?」

 彼には、投げかけられた質問がよく理解できなかった。彼女の放った言葉、その意味が。

 納乃という存在を作ってから今日まで、大きく態度や接し方を変えた記憶はない。そう訊かれるような出来事に、身に覚えがなかったからだ。

 ここまで言っても、未だによく分かっていなさそうな顔をする主人マスターに向けて、彼女は続ける。

「たとえば。講義でも習ったように、魔法人形ウィズドールはご飯を食べなくとも動きます。それなのに、圭司さんは毎日、私にご飯を作ってくれるじゃないですか」

 なんだ、その事か。と、彼はようやく納乃が言いたいであろう事を理解した。……彼の中ではすっかり当たり前の事だったので、そうすぐに思い浮かばなかったのだ。
 
 彼女の言う通り、人形は魔力を動力源として動くので、魔力さえあれば、ご飯なんて食べなくとも最大限の力を発揮できる。

 その魔力さえ、よっぽどの事がない限りは人形自身で少しずつ回復していくので、戦闘だったりで著しく魔力を失ったりしない限りは、半永久的に動き続ける。

 それなのに、彼女の主人は特に理由もなく、毎日、温かい食事を自分の為に用意してくれる。
 
 彼の行動、その全てが、まるで納乃の事を人形としてではなく、一人の人間であるかのように接してくれているように感じる。

 ……魔法人形である納乃にとって、それが不思議でならなかった。

 そして、彼も彼で、それが一般的な人形師としておかしい行動である事は分かっていた。人形師として、常識外れであることを自覚していた。

「……変だって思われるかも知れないけどさ。どうも俺はんだ」

 それが、彼の人形師としての評価を下げている原因へと繋がっている事だって、薄々気付いていた。分かっていながらも、そういった行動を取ってしまう理由わけは、そのにある。
 
 脳裏へと強く焼き付けられたあの一件は、彼にとっての魔法人形に対する価値観、そのものを大きく変えた。——それは、とある一体の人形が遂げた『死』が大きく関わっている。

の苦しむその姿を思い出す度に、胸が張り裂けそうな感覚に陥る。

 だから、思い出したくはなかった。でも、忘れる事なんて出来るはずもない、高校二年のあの記憶を。


 質素ではあるが、それが逆に彼女の慎ましさを表現していると言えるであろう――橙色の和服を纏い、さらりとした黒髪を長く伸ばす。

 これぞ大和撫子であると誇れるような風貌をした色白の少女が、暗い夜道に横たわって倒れている。

 その身体はもうボロボロで、無数の切り傷が痛々しく刻まれているが、その傷口から赤い鮮血は一滴足りとも流れていない。

 そう、彼女は『魔法人形ウィズドール』だった。

『――んぐ……ッ! ぐ……ぐあああああああああああああああああッ!?』

 もう時間が時間なので、辺りはすっかり静まりかえっており、彼女の悲痛な叫びだけが寂しく、閑静な住宅街へと響き渡る。

 少女がその叫びを上げた理由は単純。

 彼女の身体に、紫色の剣が幾度となく、突き刺されては抜かれ、また突き刺され――を繰り返していたから。

 血は流れずとも、痛覚は存在する。そして、彼女はあくまで人形であって、人間ではない。……にとって、これほど都合の良い存在はないだろう。
 
奈那ななッ! 奈那ーッ!!』
 
 目の前で倒れ、何度も何度も何度も、紫の剣を刺され続ける人形の名前――『奈那』を、ただ呼び続ける事しか出来ない主人マスター

 人形師である彼だったが、目の前の状況を止められる力はもう残されていなかった。必死にもがき、足掻いた成れの果てが、この惨状を招いてしまったのだから。
 
『ふ、ふふ、はははははははははははははッ!! やっぱりこの感覚だよ、分かるだろう?』

 狂ったように笑いながら、それでも彼は、紫色の剣を突き刺し続ける。剣先に広がる少女の表情が、苦痛に染まれば染まるほど――反比例するように、男の笑みは増幅していく。

『どれだけ魔法の腕を磨いたって、本格的に戦争でも起きなきゃ、力を振るう矛先がねえ。そこで、お前のようなガキのオモチャが役に立つって訳だ』

 彼は、人形師である……とは言っても、まだ魔法大学を目指しているだけの一般人。並外れた才能や、特筆する点がない限りは、魔法大学にてカリキュラムを受けた魔法師からすれば、彼のしている事はごっこ遊びにも等しい。
 
 人形の少女、奈那が苦しむ姿を見て、愉快に高笑いする男。それも、実際に戦って分かる。魔力を込めて放たれるその剣は、紛れもなくの魔法師が持つ力だった。

 所詮は本物の真似事をしているだけに過ぎない、彼の作った人形。だとしても、こんな。

 ……こんな腐りきった外道がストレス発散をするためのサンドバックになんて、奈那がならなくてはいけない道理なんてあるはずがない。

 だって。彼女は決して人間ではない。造られた体、造られた心、造られた感情のはずなのに。それなのに、それなのに――。

 今、目の前に浮かんでいる――彼女が苦しむその表情は、

『うおおおおおおおおおおッ!! 奈那を、奈那を離せえええッ!!』

 気がつけば、彼は湧き上がった怒りに任せて、全速力で男の元へと走っていた。そんな自分の突飛な行動に驚いている、そんな暇さえなく。

 しかし、魔法師の男はこちらに気付くと、剣ではなく、その長い足で一蹴する。

 横腹を金槌で殴られたような、鈍く激しい痛みに襲われ、彼はその場で前のめりに倒れてしまう。

『おいおい、ただの人形だろうが。なーに彼女でも殺されそうな顔してんだよ。……あ、オマエ、もしかして人形に欲情でもしてンのか? だははははははははッ!!』

 魔法師とは言っても、物理的な近接戦闘だって必要な知識だ。魔法だけに頼り切りで戦うなんてイメージを持っているのは、彼らの実戦を見たことがない者だけ。

 この道のプロは、その右足だけで人ひとり黙らせるくらい、できて当たり前だ。それも、ただの人形ごっこをしているだけの、高校生が一人程度。

『……くっ、な、奈那……あ……ッ』
 
 強烈な吐き気が、怒りに任せただけの突撃さえも阻害する。

 剣の一撃、一撃が、血を流す代わりに、彼女の魔力を着実に奪っていく。

 魔法人形の動力源は魔力。それが完全に空になってしまった時――記憶も心も消え去って、ただの人形になる。

 このまま見ているだけでは、奈那は本当に死んでしまう。そうと分かっていても尚、体は動かない。

『ま、マスター……。い、今、お助けし……ッ』

 奈那の方が、俺なんかの何倍、何十倍も痛いはずなのに。一発蹴り飛ばされた程度の俺なんかよりも、苦しいはずなのに。

 それでも、彼女は自分ではなく、主人である俺の心配をしている。やめてくれ。……彼は、心からそう思う。

 自分の方が、彼なんかよりも遥かに危険な状態なのに。それでも、主人である彼の心配を続ける健気なその姿を見ると、彼の心に釘を打ち付けるような痛みが止まらない。

『くっそおおおおおおおおおおおおおおおお――ッ!!』

 こんな事までされて。……黙って倒れている訳にはいかない。

 彼の脳裏に、男の放った言葉が思い出される。『ただの人形』だって?

 ――黙れ。苦しむ奈那の、あの表情を突きつけられて。もう、あいつは人形だから。なんて思える訳がないだろうが。

 気づけば、叫び――その先で倒れる彼女の元へと、走り出していた。

 圧倒的な力の差に抗える術なんて彼にはない。それでも、目の前で苦しむ彼女を助ける為、無謀だと分かっていてもなお立ち上がる。

 ……しかし、対する少女は、顔をゆっくりとこちらへ動かし虚ろな目でこちらを見つめる。ひくひくと痙攣する口をゆっくりと開いて、紡がれたその言葉は――。

『わたし、さえ、犠牲に、なれば。……マス、……ゲホッ、ゴホッ!』

『いい、喋るな。安静にしていてくれ』

 彼女はこう言おうとした。『私さえ犠牲になれば、マスターが傷付く事はない』と。

 人形師と魔法人形は、魔力による線で繋がっているので、声に出さずとも互いの思考が共有される。人形師としての強みだ。

 声に出さずとも。俺は必ず、奈那を救って――。

『……え』

 その瞬間。に襲われた。それが何なのかは、彼には分からない。奈那が、彼にとって初めての魔法人形だったせいかもしれない。

 ただ、感覚的に理解させられた。切れたのは、奈那が生きているという証。『コンタクト』という名の、魔力でできた見えないだった。
 
『……嘘だ』

『ああ、もう壊れちまったか。ま、所詮はガキの人形って所だな。気分転換にはなったし良しとするか』

 ピクリとも動かなくなった身体から、紫色の剣を引き抜くと、魔力で生み出されたらしいそれは光を失い、その実体さえも消えていく。

 へらへらと笑いながら、その場を立ち去っていく魔法師の男。その背中を追いかける事はしなかった。

 一直線に彼が向かったのは当然、夜の冷たいコンクリート、その上に転がる一体の人形の元だった。

『奈那。奈那、頼む、起きてくれ。今度こそ、奈那をまもれるように強くなる。だから、だから――』

 必死の声も、その人形には届かない。……魔法人形なら、人の言葉を認識して、言葉を返してくれるかもしれないが――彼女はもう、ただの人形になってしまったのだから。

 少し間が空いた。どれくらいの時間、ここで膝を突いたまま、その人形を揺さぶり、魔力を送り、声を掛けたか分からない。

 ただ、奈那にはもう、いくら魔力を送った所で、もう戻ってこないんだという現実を受け入れたと同時。

 一度、冷静になったその上で。彼は、最後に一言だけこう叫んだ。

「……奈那ああああああああああああああああああああああッ!!」
 
「――圭司さん! 圭司さんっ! しっかりしてくださいっ!」

 気がつくと、そこはスーパーの鮮魚コーナーだった。棒立ちになっていた彼を、揺さぶり続けていたであろう納乃ののの姿が目に入る。

 納乃の表情から察するに、かなりの時間、意識が飛んでいってしまっていたらしい。……なんだか、周りを歩く、他の買い物客から送られる視線が痛い。

圭司けいじさん、やっと気が付いたんですね。……とても辛そうにしていたので」
 
「ごめん、納乃。ちょっと昔の事を思い出しちゃって」

 やはり、この記憶を取り出すといつもこうなってしまう。まるで開けてはいけないパンドラの箱を開けてしまったかのように。

「でも、もう大丈夫。心配はいらない」

 ただ、決して忘れてはいけないこの記憶が、今の彼を形作っているというのも事実だった。

『今度は必ず護る』――届く事のなかった、あの日の誓いを胸に。

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