プレゼント

1.起

 「春はざわざわ」という言葉を、数年前から気に入って使っている。それは、鼻の奥の方で感傷的な液体がほとばしるような、決して花粉症のせいだけにできないそんなむずむず感を表すには「ざわざわ」という言葉がぴったりだと思うからだ。新型コロナウイルスが猛威を振るい、各種の宴が自粛を呼びかけられている今春も、いつもながらこのざわざわ感を私は強く感じている。
 この時期、卒業したり異動したりする方々に餞別やお礼の品を贈る習慣が、この日本社会にはある。高校生の時分、生意気だった私は、贈る側が勝手に選ぶプレゼントよりも、贈られる側が自ら使い道を決められる現金やクオカードの方がうれしいと思っていたものだった。しかし、少しばかりヒトの気持ちがわかるようになってからは、必ずしもそうとも限らないと考えるようになった。卑近な例えだが、ラジオ番組で、毎年相方に誕生日プレゼントを渡し合うコンビの嬉々とした語りを聞くと、やはり現金では得られないうれしさが伝わってくる。

2.承

 では、その理由はなんであろうか。以下は私見だが、これには二つの考え方があるように思う。(ちなみ、このあたりの話は「行動経済学」で合理的なホモ=エコノミクスを批判する例として結構有名みたいだが、それはそれとして、ここでは一人コニャコニャと考えたことを出典もなく雑に書くことにしたい。)
 一つは、プレゼントの非日常性である。プレゼントは、普段の生活の消費行動の相場では買い物かごには入らないようなものだからこそうれしい。学生のころ、同期の友人がクレジットカードの特典かなにかでお高い和牛が届くということで、夕飯にお呼ばれしたことがあった。味音痴でも十分わかる高級食材。本当においしいものを食べると、「食べるとなくなる」という諸行無常の原理を受け入れたくなくなるものである。そのときも、そんなことを考えながら、私はちびちびとすき焼きを食らった。
 それはさておき、この和牛も広く見ればプレゼントの一種である。では、なぜこのときうれしい気持ちになったのか。それは、日常の食事のシーンで登場する牛肉が、スーパーで売られている高くない普通の肉だったからである。とくに、学生の一人暮らしでは、その傾向に拍車もかかろう。そんなマンネリ化した食生活の中で、ポンと普段はお目にしない代物にありつけけるからうれしいのである。
 だから、プレゼント選びで大切なのは、そのプレゼントの値段ではなく、そのプレゼントが同じカテゴリーの品物の中で高級かどうかという基準なのだろう。考えてみると、1000円のワインより、1000円のおつまみ詰め合わせの方が、プレゼントとしてはうれしいような気がする。これは私の感性なのかもしれないが、あながち外れてないように思える。
 もちろん、そんな基準でプレゼントを選ぶということになると、贈られる方にとっては、その魂胆自体、気持ちのよろしいものではなかろう。だから、プレゼントをこの基準だけ選ぶのは、薄情のそしりを受けかねないリスクがある。薄情のそしりを受けたくなければ、もう一つ重要なことがあろう。当たり前のことだが、それは、贈る人のことを考えながらプレゼントを選ぶという心意気だ。これが、現金よりプレゼントをよしとする第二の理由である。
 当然、その心意気をいちいち説明するのは野暮である。しかし、そのストーリーをプレゼントに含ませることで、説明せずともその心意気は伝わる。逆に言えば、その心意気の伝え方が上手であるほど、プレゼントの効果は大きくなる。作曲家・ベートーベンは、楽譜の端に「願わくは、心から生まれ、心に返らんことを」とメモ書きをしていたという。ベートーベンは音楽という媒体を通じてその営みをやってのけたわけだが、音楽を疎い私にはそれができない。だから、モノという媒体を通じて同じことを目指す。もちろん、同様の働きをする媒体として最も重要なものが言語であることは論を俟たないが、それを補うものが何なのかを考えれば、適役はプレゼントであろう。現金やクオカードも、その背後に日々の労働という苦労があるという点では、多少なりとも自分の心から生まれているモノであるが、伝えたい心意気を示すには遠回りすぎる。

3.転

 実は最近、この持論とマッチする考え方に出会った。正確には、再発見したといった方がよいだろう。それは、儒家の「礼」の思想だ。大学受験で倫理の勉強をしたときには、儒家の思想家で、性悪説を主張した荀子は外形的な行為である「礼」を重視して礼治主義を唱え、そして、その弟子の韓非子などがその思想を継承し、「法」を重視した法治主義を唱えた、と教わった。当時の私には、この二つの思想が「社会規範に従うべきだ」という意味で一緒に見え、両者の違いはわからず、またわかる必要もないと思っていた。
 しかし、儒家の祖である孔子は、「礼」を、その語感から受ける厳しさとは裏腹に人間的なものであると説いていた。有名な一節、「己に克ちて礼に復(かえ)るを仁となす(=私心に打ち克って、礼の規範に立ち返るのが仁ということだ。)」は、「克己復礼」という四字熟語で現在にも残っている。孔子にとって「礼」とは、心の内面にある「仁」性が外形的に現れたものである。では、心の内面にある「仁」性とは何か。孔子は、弟子に語らせる形をとって、「夫子の道は忠恕のみ」と説く。また、違う箇所で「恕」の説明として、「己の欲せざるところは、人に施すことなかれ」と語っている。このことから、他人を思いやる気持ちが、内面的な「仁」の本質であることが読み取れる。
 その上で、もう一度「克己復礼」を読んでみると、「克己(=私心に打ち克つ)」は、自己の欲望にとらわれず、他者に目を向けるべきだという意味であり、「恕」の考え方の言い換えのようにも読める。つまり、「礼」において重要なのは、自制的な行為のありさまではなく、その自制の背後にある心意気なのである。
 プレゼントの例で考えれば、何かを贈るという行為は「礼」の一面にすぎない。現金やクオカードを渡すだけでは、この一面しか表せてない。礼を完成させるには、贈る側に対する「恕」が必要である。その人のことを思う、思いながらプレゼントを選ぶという二つの要素によって、はじめてプレゼントが意味を持つことになろう。でなければ、現金やクオカードを渡すのと、そう大差はない。
 そんなことを考えていたときに、ハッと気づいた。日本語には、「お礼の品」という言葉がある。知らず知らずのうちに、孔子の考え方は、日本社会の骨肉となっていたのであろう。そんな日本社会で、唐突に自民党から提案された「お肉券」などが少なからぬ違和感をもって受け止められる理由も、「礼」の考え方を下敷きにすると説得力を持つように思う。儒家の思想は、新型コロナウイルスが渡ってくるよりずいぶん前から、中国より渡来しているのだ。

4.結

 送別会が中止になるなど、なかなか言葉での別れが難しいこのご時世である。そんな時だからこそ、「礼」の意味を噛みしめることで、プレゼントを選ぶ心意気も変わってくる。
 春はざわざわ、そんなことを考えていると、なんだか大人になった気がする。それもそうだ。今日、私は25歳になる。

(2020.03.29)


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