日本の戦シリーズ 壬申の乱(じんしんのらん)

壬申の乱とは?

壬申の乱は、西暦672年7月24日〜8月21日の間に起きた古代の日本で最大と言える
内乱である。この年の干支が壬申(みずのえさる)だったことに由来する。

天智天皇(てんじてんのう、第38代天皇)の後継を争い、天智天皇の弟である大海人皇子(おおあまのみこ)と天智天皇の息子である大友皇子(おおとものみこ)が中心となり、戦を起こす。

大友皇子が弘文天皇(こうぶんてんのう、第39代天皇)となり皇位を一時継承するが、最終的には大海人皇子が勝利し、皇位を継承しました。

戦のきっかけ

いくつかの原因は考えられますが、皇位継承の問題がやはり大きいと考えられています。

天智天皇がまだ中大兄皇子(なかのおおえのみこ)であった頃、乙巳の変(いっしのへん)や大化の改新(たいかのかいしん)を行って改革を推し進めていました。

皇太子から天皇となってから当時中国の唐に倣って皇位継承は
嫡子相続(長男に継がせること)を目指し少し強引な形で変えようとしていたのです、

皇位継承には母親の身分もすごく重要で、血統や位が大きなポイントでもありまして
その点において大友皇子の母親は身分が低かったので、歓迎されるばかりではなかったのです。

そこで天智天皇と同じ血統を持つ、大海人皇子に皇位を継承して欲しい勢力が
出てきました、大海人皇子は大友皇子を皇太子に推薦しさらに自から出家し
吉野宮(奈良県)に移っていて、戦は起きないように思われていたのですが…

伯父の大海人皇子を押す声も強くやはり警戒したのでしょうか、
自分の地位を脅かすかもしれないと思ったのかもしれません
皇位継承した大友皇子(弘文天皇)は、大海人皇子に対し挙兵をしました。

どんな戦いだったのか?

672年1月7日に天智天皇が崩御し、大友皇子が弘文天皇として1月9日に即位しました。
弘文天皇の挙兵を知った大海人皇子は、7月24日に吉野を出発し各地に赴き関係の
深かった豪族を味方に引き入れることに成功、兵力を増やしていき兵を二手に分け
大和(奈良)と近江(滋賀)に送り出していきました。

一方、近江にいる弘文天皇側は吉備(岡山)と筑紫(福岡)に兵の動員を命じていた、だがうまくいかず兵を集められなかった、東国にも使者を送ったが大海人皇子側の部隊に阻まれて失敗していたのだった。

大和での戦いで一時は優勢に戦っていた弘文天皇の軍だったが、大海人皇子からの
美濃(岐阜)の援軍もあり形勢は逆転していました
その後も弘文天皇の軍は中々足並みが揃わず、思うように進軍できずにいたようです。

大海人皇子の軍は勢いにのり、直進しながら連戦連勝で勝利を重ねていきました
8月20日に起きた瀬田橋の戦い(滋賀県大津市)で大海人皇子側が勝利し、弘文天皇の
軍は大敗してこれが決定打となりました。

翌日に弘文天皇は自決し乱は収束、673年2月27日に大海人皇子は
天武天皇(てんむてんのう、第40代天皇)として即位しました。

戦のあとはどうなった?

天武天皇が即位し、近江にあった都は滅んで飛鳥(奈良)の地に都が戻ってきました。

天智天皇の後継者としてではなく、新しい統治者として自らを位置づけるように
さらに中央集権を推し進めていきます。

「天皇」や「日本」という言葉を採用したのも天武天皇の時代ですし、家柄ではなく才能によって役職に就ける制度でもこの頃に出来上がっている。

日本という国の原形が形作られたこの激動の時代、先人たちの思いがこの現代に伝えられていることに深い感動を覚えます、人は争いの中で道を見つけていく生き物なのかもしれません、現代には繰り返さないようにしていきたいものです。

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