見出し画像

貧乏は不幸なのか

貧乏生まれ、貧乏育ち。
これは変えようのない事実で、できることなら隠しておきたい。

貧乏とは言っても実際そんなことないんじゃないの、とか。
普通じゃん!とか、言いたくなるかもしれない。

まじで貧乏。(実家が)

“実家が太い”なんて言葉を聞いた時、
「うちは激細。爪楊枝、超えて糸かもしれない。」と真面目に考えるくらいに細い。
スーパーモデルもびっくりな細さ。

思春期は好きな人が周りにバレることより、実家がバレることの方が怖かった。
友達との待ち合わせは、迎えに行くか、近所の交差点を指定する徹底ぶり。
絶対に家バレしてはいけない。

誰しも子供の頃、
「うわーお化け屋敷ー!」なんて倒壊寸前の空き家を指差して笑ったろ。
あれ、あれだよ。私の家!!!!!!!

貧乏ゆえに不自由も多かった。
学校で使う絵の具セットや習字セット、ああいうものは学校で配布されたカタログから選ぶが、私は母がどこかで仕入れてきた寄せ集めだった。みんなと同じが良しとされる日本の学校教育のコミュニティーの中で爆裂浮く。
ただでさえ、浮いてる存在だったのにそれを加速させるアイテムを持たされるわけだ。誰も近づいてきやしない。悪意なき子供が、「それなに?」「なんでみんなと違うの?」と私が一番最初に持ち、そして解決されなかった疑問をぶつけてくる。知るかよ、と答えたい気持ちをグッと飲み込み愛想笑いだけした。不幸の始まりかもしれない。
こういう経験が「不幸だ」と、私の中に刷り込まれていった原因かもしれない。
あの時、母が「みんなと違うのは特別だよ」的なことさえ言ってくれれは、この劣等感も少しはマシになったのかもしれないが、あの時母が〜なんて言っていても過去は変わらない。劣等感も、己の能力不足が原因だろう。何より、母のせいにしてはかわいそうだ。母は裕福な育ち、私という存在が生まれてしまったが故にこんな貧乏生活をする羽目になっている。お母さん、生まれてきてごめんね。


貧乏 → 不自由な生活 → 不幸

のような謎の方程式のおかげで、私は貧乏で不幸だと思っている。

貧乏は、本当に不幸なのか。
答えが知りたくて、AIチャットに聞いてみたが、本日の会話回数上限を超えていたので、制限がかかっていた。

ネットで、「貧乏は不幸か」と検索した。
どっかのサイトの記事にこんなことが書いてあった。
“収入の25%の貯蓄ができていれば、不幸ではない”と。
私は25%以上の貯蓄ができているので、このサイトの記事の不幸には当てはまらないことがわかった。しかし、貧乏であることには変わりない。
そもそも収入が多ければ、25%の貯蓄をしても貧乏ではないし、不幸でもないということなんじゃないだろうか。収入が少ない私は、不幸ではないが貧乏である。

なんとも切ないことがわかった。
私は不幸ではないが、まごうことなき“貧乏”なのだ。

しかし、今度はなにをもって、貧乏とするのか。
というところになってくる。

身の丈に合った生活ができていれば貧乏ではない。
これなんだと思う。
20万円でそれに見合った生活ができていれば、貧乏ではないし。
50万でも、それに見合ってない(足りない)となれば、貧乏になるし。

貧乏か貧乏じゃないかは心の豊かさなのかもしれない。
心が豊かじゃなければ、お金があっても豊かとは言えないし、(何かが)荒んでいるかもしれない。“金”に囚われすぎても人間性に問題があるようにも見えてしまう。

幸せとはその人が何を重視しているかで変わる。
貧乏=不幸 ではないというとがわかったが、、、、

私は、毎日湯船に浸かれる贅沢な生活をしたいと思ってしまう。
しかし、それ以上のことは何にもない。旅行に行きたいとか、高級なディナーに行きたいだとか、ランチでもいいから週に1回は外食したいだとか。できたらいいけど、望みはしないかなというレベルで。
毎年の旅行も、高級なディナーも、週1の外食も。そんな生活は少しばかり怖いなと思う。
これは生活水準を上げることが怖いと思うマイノリティな人間ということなのか。

働かなくても贅沢三昧できる収入を得たとしても、私は“細々と仕事をして「お金ないんですよ。毎日節制です。」と言っていたい”派の人間だ。お金があることは、安心につながるかもしれないが、直接的に幸せには繋がらない根っからの貧乏人気質なのかもしれない。

毎年の旅行も、高級ディナーも、週1の外食も、「夏場、エアコンガンガンの部屋で昼寝をする。」には勝てない。幸せは人それぞれ違う。



貧乏貧乏と口でいう割には、副業やらなんやらをしてお金を稼ぐ努力をしないのは、些か疑問である。

もしかすると、
私自身、貧乏人らしく貧乏生活することがそんなに不幸ではないのかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?