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聖書に見る性と道徳観 - 旧約と新約の比較

旧約聖書

カジュアルセックスは不法な行為だったとされていますが、実はそうとも限らないような記録が残されています。

たとえば、
ユダはかつて神殿娼婦だと思った女性(正体は嫁のタマルだった)を拾い、その姦淫によって二人の息子をもうけました(創世記38:11-30)。
サムソンはかつて遊女とセックスし、その直後に神の力によって敵を打ち破りました(士師記16:1-3, 原典によるとそのような記述はないという説もあり)。

このように、少なくとも、神殿娼婦とのセックスは神に許されていたようです。
ただし、ユダはその後に痛い目を見ているし、サムソンは妻の裏切りによって死に導かれているため、娼婦に入ることは堕落の過程の一つとして解釈することもできます。

また、申命記(死を前にしたモーセがモアブの荒れ野で民に対して行った3つの説話をまとめたもの)では、結婚前の女性は処女でなければならないという旨の記述があります。
以下は、結婚相手である女性に処女の証拠がなかった場合の律法です。

しかし、もしその娘に処女の証拠がなかったという非難が確かであるならば、娘を父親の家の戸口に引き出し、町の人たちは彼女を石で打ち殺さなければならない。彼女は父の家で姦淫を行って、イスラエルの中で愚かなことをしたからである。あなたはあなたの中から悪を取り除かねばならない。

申命記22章20~21節

このように処女と偽って結婚すると、その女性は石打ちの刑に処されてしまてしまっていたようです。

また、同じく申命記には以下のような記述があります。

ある男がまだ婚約していない処女の娘に出会い、これを捕らえ、共に寝たところを見つけられたならば、共に寝た男はその娘の父親に銀五十シュケルを支払って、彼女を妻としなければならない。彼女を辱めたのであるから、生涯彼女を離縁することはできない。

申命記22章28~29節

このように、処女を奪った男性は、その責任を負って結婚する必要があり、処女を失った女性も、それを奪った男性と強制的に結婚させられました。

このように、旧約聖書では処女性が重んじられていました。
婚前交渉が許されなかったというよりかは、結婚前の女性は処女でなければならないし、男性は結婚前の処女を奪ってはならないという道徳観があったのではないかと思います。

なお、旧約聖書において、神殿娼婦も承認されているわけではないようです。
ホセア書の4章10節~19節では、カナン人の豊穣の神々を祀る儀式で神殿娼婦とセックスすることを、イスラエルの人々に戒めています。
また、モーセの律法でも売春は禁止されています。

あなたの娘に遊女のすることをさせて汚してはならない。あなたの土地をそれによって汚し、恥ずべきことで満たしてはならない。

レビ記19章29節

祭司の娘が遊女となって、身を汚すならば、彼女は父を汚す者であるから、彼女を焼き殺さねばならない。

レビ記21章9節

イスラエルの女子は一人も神殿娼婦になってはならない。また、イスラエルの男子は一人も神殿男娼になってはならない。いかなる誓願のためであっても、遊女のもうけや犬の稼ぎをあなたの神、主の宮に携えてはならない。いずれもあなたの神、主のいとわれるものだからである。

申命記23章18~19節

今日の日本では――あるいは外国でもそうかもしれないが――風俗嬢などを蔑視する人々がいますが、旧約聖書の時代でもそのように見られていたみたいですね。

新約聖書

新約聖書においては、しばしばパウロが性について言及しています。
新約聖書において、「porneia(πορνεία)」と記述されており、「夫婦間でないあらゆる性的表現」という意味で使われています。
つまり、不貞行為、近親相姦、獣姦、同性愛も「porneia」に含まれているわけです。
この翻訳には問題が多く、英語に訳される際に様々な翻訳がされてしまっていて、混乱を極めています。
日本の新共同訳では、最終的に「みだらな行い」と訳されています。

たとえば、コリントの信徒への手紙一(使徒パウロと協力者ソステネからコリントの教会の共同体へと宛てられた手紙)では以下のように書かれています。

しかし、みだらな行いを避けるために、男はめいめい自分の妻を持ち、また、女はめいめい自分の夫を持ちなさい。

コリントの信徒への手紙一7章2節

これは、書いたパウロが、性欲は抑えがたいものであり、それを適切に処理する方法は、売春宿に行ったり婚約者に会いにいったりするのではなく、とっとと結婚してその相手とセックスすることと意味していると解釈されます。

また、パウロによるテサロニケの信徒への手紙一では、以下のように書かれています。

実に、神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです。すなわち、みだらな行いを避け、おのおの汚れのない心と尊敬の念をもって妻と生活するように学ばねばならず、神を知らない異邦人のように情欲におぼれてはならないのです。

テサロニケの信徒への手紙一4章3~5節

このように、パウロは、禁欲主義的な性的態度をとることを是としました。

そのほか、新約聖書には、婚前交渉を批判し、純潔を称える記述がみられます。

彼らは、女に触れて身を汚したことのない者である。彼らは童貞だからである。この者たちは、小羊の行くところへはどこへでも従って行く。この者たちは、神と小羊に献げられる初穂として、人々の中から贖われた者たちで、その口には偽りがなく、とがめられるところのない者たちである。

ヨハネの黙示録14章4~5節

結婚はすべての人に尊ばれるべきであり、夫婦の関係は汚してはなりません。神は、みだらな者や姦淫する者を裁かれるのです。

ヘブライ人への手紙13章4節

このように婚前交渉を含んだみだらな行いがタブーとされたのには、個人の体は個人のものではないから、という理由があります。

みだらな行いを避けなさい。人が犯す罪はすべて体の外にあります。しかし、みだらな行いをする者は、自分の体に対して罪を犯しているのです。知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた精霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。

コリントの信徒信徒への手紙一6章18~20節

こういった理由から、セックスは神の許した結婚のあとからでないとならないという道徳観が形成されたのではないかと思います。


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