[書評]レベッカ・L・ウォルコウィッツ『生まれつき翻訳 世界文学時代の現代小説』(佐藤元状・吉田恭子監訳、田尻芳樹・秦邦生訳、松籟社、2021年)(初出:「図書新聞」 3548号4面)

 翻訳をテーマとする文学研究と聞けば、おそらく多くの人が、原文と複数の訳文を比較するような内容を想像するだろう。ところが、本書の射程はそれよりもはるかに広い。英国モダニズム文学の研究者としてキャリアをスタートさせた著者レベッカ・L・ウォルコウィッツの手になる本書は、「生まれつき翻訳」という概念をもとに、狭義の英文学どころか、紙に書かれた文学作品の枠すらも超えながら、多様な作品群を類例のない方法で分析していく。巻末のコラボレーションにおける印象的な表現を借りれば、分析対象や方法論をめぐる彼女のこうした良い意味での「節操のなさ」こそ、旧態依然とした文学研究とは一線を画す本書の軽やかな魅力を端的に表現する言葉だろう。
 本書全体の狙いがまとめられた序章の議論によれば、「生まれつき翻訳」の文学とは、あらかじめ翻訳を見越して書かれており、翻訳を完結後の追加ではなく媒体として扱うとされる。「生産の条件」として翻訳を位置づける生まれつき翻訳の作品群は、「生産の時点で流通の効果を強調する」ことで、その過程についての考察を誘うものとなる。「翻訳されようとするだけでなく、重要な意味で、翻訳され続けることを指向」するこれらの作品は、過去と未来双方への拡がりを持ち、さらに「作品自身の形式に翻訳が埋め込まれる」ことで、なによりも読者が「ネイティヴ読者」であることを拒む。ウォルコウィッツは、ベネディクト・アンダーソンがかつて提唱した「想像の共同体」のパラダイムを評価しつつ、そこに「テクストには原文があり、テクストの言語は読者の国語と一致する」という前提が温存されてもいたことを抜け目なく指摘し、そうした所有的集団主義の残滓を乗り越える近年の実践例として、たとえば序章ではチャイナ・ミエヴィルのSF小説や、村上春樹、ロベルト・ボラーニョらの多言語主義を論じる。以後本書は、章を追うごとに典型的な文学研究の枠組みから徐々にそれながら、生まれつき翻訳の諸相へと切り込んでいく。
 J・M・クッツェー論となっている第一章では、フランコ・モレッティによる「遠読」モデルを援用しつつ精読モデルをアップデートした、「距離を置いた精読」と呼ばれる実践が紹介される。たとえばクッツェー文学に暗示されるような「テクストの多元的始まりと、それが多様な集合性に横断的に参加する仕方」を説明するには、最も意味深いテクストの細部として「単語」だけに着目する従来の精読では明らかに不十分である。だが同時に、伝統的な精読の存在を前提として、文学の流通の分析を生産の分析から切り離そうとするモレッティの議論にも問題がある。著者はダニエル・ハックらを引きながら、文学の流通と生産双方に関わる、これまで精読の実践と結びついてこなかったあらゆる要素を含む形で「細部」を捉え直す試みとして、「距離を置いた精読」の重要性を強調する。
 この認識は、その後の各章での分析にも共通する基盤となっている。独立した作家論としてはもっとも鋭い読みが展開されているように思えるカズオ・イシグロを論じた第二章は、生産と流通の関係にも重ねられるような、国民文学と比較文学を区別する学問分野の棲み分けに対して、両者を架橋する比較を包含し、要求する点にイシグロ作品の核を見出す。きわめて興味深いことに著者は、この主張それ自体を翻訳の流通形態の比較から導く。『わたしを離さないで』日本語版の表紙デザインは、他国版とは明確に異なるカセット・テープのイメージを強調している。同作でキャシーが重視したコピーやクローンの主題とも関連するこのカセット・テープこそが、『日の名残』のスティーヴンスにとってのリストやシリーズの意義とともに、イシグロの現象学的な態度、すなわち芸術作品の唯一性を「絶対的な性質やあらかじめ決定済みの未来」ではなく、「比較や類似の可能性」に依存するものと捉える見方を象徴する「細部」として読み解かれることとなる。
 書物の位置と読者たちの位置のあいだの関係を考察した続く二つの章は、相対的にマイナーな作家群を論じる。キャレル・フィリップス、デイヴィッド・ミッチェル、エイミー・ウォルドマンを扱った三章は、「いかに読者が本を作り、作り直すのか」に焦点を当てる。ここでは、「翻訳についての意識とグローバルな流通の強調」がもたらした、国家形小説から世界形小説への移行に伴う、抽出、照合、計算の三つの仕掛けについての変形が、具体的な作品に即して分析される。また、ジャメイカ・キンケイドとモーシン・ハミッドをめぐる四章は、「翻訳を利用することによって、相対的な流暢さを生み出し、読者にほかの読者をもっと意識させ、読者が作品の持続的な生産において果たしている役割の自己理解を向上させる小説」に着目する。狭義の「アメリカ文学」の枠組には収まらない二人のポストコロニアル小説の目的は、「ほかとは異なる独特の文化を分節することにではなく——彼女たちの小説が生産されるシステムを含めて——地政学的なシステムを分節化することにある」とされる。
 こうした主題をさらに展開させた終盤の二章では、いよいよ書籍の内部で「本の形態」さえもが解体されていく。五章とエピローグでは、巻末で吉田恭子も述べる通り、オリジナルの執筆生産から翻訳やアダプテーションの流通へという直線的な時系列を「錯綜させ複線化させる」試みとして、フラッシュやYoutubeを媒体とするチャン・ヨンへ重工業のアート作品と、オリジナル作品抜きで「一二の短編を一八の言語、六一人の著者で」翻訳したアダム・サールウェルによる特異なアンソロジー「マルティプルズ」がそれぞれ議論の俎上に載せられる。
 最後に強調しておかなければならないのが、原書にはない日本語版独自の要素だ。イシグロとジュンパ・ラヒリ、多和田葉子による、母語とは異なる言語で書くというプロセスに注目した著者による特別寄稿に加えて、本書の最後には訳者あとがきに代わって監訳者の吉田、佐藤元状と編集を担当した木村浩之による座談会が収められている。近年の世界文学研究における本書の位置を明快に示す有益な解説に加えて、大学教育や出版という流通過程にこそ目を向けた複数の語りが共存する、この「節操のない」実験としてのコラボレーションは、著者への見事な応答であると同時に、未来への呼びかけでもある。本書そのものを「生まれつき翻訳」の媒体とするような新たな「翻訳」の生産と流通へと読者たちを誘惑する、著者ひとりにとどまらない複数の声に、ぜひ耳を傾けていただきたい。

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