書評:ドン・デリーロ『ポイント・オメガ』都甲幸治訳、水声社、二〇一九年(原書:二〇一〇年)。[初出:図書新聞 (3400) 2019年5月25日号、6面]

 本作『ポイント・オメガ』(二〇一〇年)は、ある肌寒く、ほぼ完全に真っ暗な美術館の展示室から幕を開ける。そこでは匿名の男が、半透明のスクリーンに映し出された映像作品を見続けている。彼が毎日展示室に通い、立ったまま集中して見ているのは、アルフレッド・ヒッチコック監督による映画『サイコ』(一九六〇年)と全く同じ映像を、音声を取り除いて二十四時間かけてスロー再生した、ダグラス・ゴードンによるアート作品『二十四時間サイコ』(一九九三年)である。

 男は、ジャネット・リーが殺される、引き延ばされたシャワー室のシーンを、「根本的に変容した時間の平面のなかで」(二〇)繰り返し見ることに執念を燃やすが、その目的は殺人の決定的瞬間を見ることではなく、その直後に毟りとられるシャワーカーテンのリングを数えることにあった。忘却の要素を含むというこの体験を通じて彼は、「元の映画を忘れたかった。あるいは少なくともその記憶を、侵入してくることのない、遠い参照項にしておきたかった」(一八)のだという。

 こうした感覚には、実際に同作の展示に何度も足を運び、そこで本作執筆の着想を得たというドン・デリーロ自身の意識がある程度反映されているだろう。

 短い導入に続く第二のパートは、カリフォルニアの砂漠へと舞台を移して進行する。映画製作者ジム・フィンレイは、かつてイラク戦争に加担した御用学者リチャード・エルスターを取材したドキュメンタリー作品を制作するため、執筆時のデリーロと同じ七十三歳となり、引退して田舎に引きこもっている彼の自宅を訪れる。このエルスターの人物像は、すでに指摘される通り、ブッシュ政権下でイラク戦争を主導したネオコン政治家の一人ポール・ウォルフォウィッツに加え、エロール・モリス『フォッグ・オブ・ウォー』(二〇〇三年)の取材対象であり、キューバ危機やベトナム戦争で辣腕を振るったロバート・マクナマラを想起させる。

 時間が流れない、静けさに支配された砂漠でエルスターは、あたかも現代思想の見本市のような厭世的な黙想を展開する。渡邉克明も述べる通り、本書のタイトルの元となったテイヤール・ド・シャルダンの思想を裏返しつつ彼は、フィンレイに「意識なんてもう干上がってしまった。今や無機物に還るんだ。我々はそうしたいのさ。野原の石ころになりたいんだ」(六九)と語る。「深い時間」、「地質学的な時間」へと沈潜した彼の眼の前に広がっているのは、「更新世の砂漠、絶滅の法則」(九三)なのだ。

 しかし、戦争について饒舌に語る彼の止まっていた時間は、当地にしばらく滞在していた娘ジェシーの、いかにもヒッチコック的な謎をはらむ失踪によって、再び日常へと引き戻されることとなる。

 ところで、あくまで制作と準備の過程のみが描かれるこの作品に加え、本作には一見周縁的にすぎないもう一つの映画が登場する。喜劇俳優ジェリー・ルイスの映像のみをひたすら再構成した、かつてフィンレイが完成させた唯一の映画である同作には、筋萎縮症の患者への支援を目的とする長尺の番組テレソンに出演し飛び跳ねる、一九五〇年代の彼の様子が収められていたという。奇妙に引き延ばされた時間の中、病のイメージと対照的に画面上で躍動する彼の姿は、『ボディ・アーティスト』(二〇〇一年)や短編「痩骨の人」(二〇一一年)に反復的に現れる、特異な身体技法を追求する女性たちの系譜に連なるものだ。

 また、「古くて損なわれた」フィルム由来の映像を「めちゃくちゃな順番で編集し」、スローを用い、サウンドトラックを加えることで、ジェリーを「特定の瞬間から切り離され、もっと大きな、歴史の外にある場所に移行」(三七)させる手法は、『二十四時間サイコ』とともに、デリーロの過去作における映画や映像メディアへの参照においても一貫して見出せる。

 たとえば、『アンダーワールド』(一九九七年)において、ジョン・F・ケネディ暗殺の記録映像であるザプルーダー・フィルムは、インスタレーション作品として再構築され繰り返し鑑賞される。また、行方不明のホームランボールをめぐるニュース映像では、ボールそのものではない落下地点の周囲の様子が、セルゲイ・エイゼンシュテイン監督による架空の映画『地下世界』では、映画の本筋と離れた人物たちの「醜く歪んだ顔たち」といった要素が、いずれも核の脅威のイメージ以上にむしろ突出した存在感を放っていた。

 特定の細部への時に過剰とも思える反復的な注視を通じて、引用対象が元々持つ意味を脱臼させ、新たな意味や解釈を映像からパラノイアックに産出し続ける、こうしたプロセスを通じてこそ、かつてのフィンレイや従来のデリーロ的人物たちは、死や破滅のイメージと分かちがたく結びついた元々の映像の衝撃を「忘れ」、記憶に距離を置こうとしてきたのだ。

 最後に、第三のパートで物語は、冒頭部翌日の展示室へと戻る。再び登場する匿名の男とジェシーが、『二十四時間サイコ』を見ながらつかの間の会話を交わすこの場面でも、映像は死の予感を漂わせるのみである。彼女を追い一度は展示室を出るものの、再び部屋へ戻り同作に没入しようとする男は、ジェリーの映画を製作した当時のフィンレイらと同様、引き延ばされた映像にそれでも意味を見出そうとする。

対照的に、第二パートにおけるエルスターは、同作や自らが経験した戦争のイメージの裏に、もはや一切の隠された意味を探ろうとはしない。フィンレイにはともに鑑賞した『二十四時間サイコ』への「きっぱりとした拒絶」(八〇)を示しているように見えた彼は、戦争を「表現されたこと以外なにもない」(四〇)俳句と並置して語ってもいた。同様に、無編集で彼の映画を製作しようとしていたフィンレイもまた、最後にエルスターを送る車中で、娘の失踪から受けた衝撃の渦中にある彼の撮影をひとまず断念するに至る。

 おそらく、この映像への態度における明白な差異には、本作発表時には終結していなかったイラク戦争のイメージが、いまだ生々しいものにとどまっていたことが関わっている。九・一一テロの例同様、それらのイメージもまたいずれ反復や再構成の対象となるのか。あるいは、今後も老い続けるデリーロはそれを拒み、意味の増殖へとつながらない無機的な絶滅のヴィジョンこそを示そうとするのか。

 本作は、デリーロ文学の入門にも最適な一五〇ページほどの短さでありつつも、同時に彼の一貫した主題である「時間と記憶」にまつわる新たな問いをも読者に投げかける、著者の新境地とも言える中編小説である。


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