「喪失なき成熟──坂口恭平・村田沙耶香・D.W. ウィニコット 」 序(初出:限界研[編]『東日本大震災後文学論』南雲堂、2017年、pp. 141-48)

しかし、空間は到る処にある。新しい世界は、到る処にあるのだ。たとえ、それをみいだすため に、コロンブスと同様の「脱出」の過程が必要であるにしても。
― 花田清輝『復興期の精神』

 正直なところ、はじめにこの論集のテーマである「震災後文学」が提案されたとき、わたしはそれ に違和感と反発を覚えた(そして、いまだにその違和感は消えてはいない)。事実、二〇一一年の東 日本大震災以降、それまでわたしが熱心に作品を追ってきた作家や映画監督の何人かも、地震・津波 の被害や原発問題といった震災に関連するテーマを明示的に取り入れた作品を発表するようになった。 しかし、それらの作品に触れるのをある時期までわたしは意図的に避けてきた。震災後の現実を生き ることと、震災の被害や震災をめぐる状況をフィクションに落とし込むことの間には、わずかながら決定的な距離があるように思えてならなかったからである。たとえば、序論で飯田も述べているよう に、 9.11文学の代表作と称されることの多い、ドン・デリーロ『墜ちてゆく男』の原書が刊行され たのは、テロ事件から六年後の二〇〇七年である。あくまでもわたしの個人的な感覚でいえば、多く の被害者を出した「震災」を、原発問題やデマの拡散といった問題を含めた総合的な観点からフィク ションの材料とするためには、少なくとも同等の「喪」の時間が必要であるように思われたのだ。(1) もちろん、震災を扱ったフィクションの作り手たちにそうした逡巡がなかったはずはない。いとう せいこうの小説『想像ラジオ』(二〇一三年)、篠崎誠監督の映画『SHARING』(二〇一四年)とい った作品には、震災を早い段階でフィクションの素材とすることへのためらいが、作品内人物の煩悶 として、ある種メタ的に織り込まれていた。こうした要素は、時が経ってから作品に触れた人々に対 して、作品発表時の空気感を伝える上で貴重なものであろうし、なんの躊躇もなく震災を「ネタ」と して消費するような立場に比べて明らかに誠実な態度であるのも確かだろう。しかし、それでもわたしは、これら震災そのものを描いたフィクション作品群に対する、小骨が喉に刺さったような違和感 を拭うことが出来なかった。(2)
 一方で、わたしが震災以降の数年間、特に高い関心を持って追い続けてきたのは、被災地での滞在 製作の要素を伴った、ドキュメンタリー的な志向の強い作品群であった。それらはいずれも純粋なドキュメンタリー作品ではなくある種の虚構性を含んでおり、また作り手と作品に登場する現地に住む 人々が、一定以上の時間、同じ空間を共にして生活を営んでいることが作品制作の前提として活かさ れている、という共通点を持っていた。
 たとえば、震災を機に岩手県の陸前高田市に移住した小森はるか+瀬尾夏美のユニットが発表した一連の作品群は、被災者の声を聴き、記録することにまずは定位した上で、そこに虚構的な想像力を 少しずつ加えていくという制作方法をとったものだ。(3)現地で職を見つけ、日々の暮らしを共にす る中で、少しずつ信頼関係を築いた上でインタビューや撮影へと移る。この対象への寄り添い方は、 映像作品における、小森や瀬尾をこう言ってよければ「いじる」ような、現地の人々と彼女たちの打 ち解けたコミュニケーションのあり様に反映されているように見える。
 「波のした、土のうえ」は、「おもに震災以後被災した土地を歩き続けて紡ぎ出された文章、スケッ チ、絵画、ドローイング、写真、冊子などの平面作品と、地元住民と協働してつくられた映像作品と で構成」(4)された展示であり、二〇一四年の発表以後、翌年より制作拠点の陸前高田を皮切りに全国へ巡回中である。(5)また、小森による単独名義のドキュメンタリー映画『息の跡』も、本展の映 像作品の姉妹編とでもいうべき一本だ。両者の映像作品はいずれもまず、陸前高田市に住む被写体のインタビューを元に構成されている。聴き取り調査の中で話題にのぼった場所に被写体自身と赴く中 で、場所・空間と結びついた記憶に耳をすませ、目を凝らしてゆくところから、徐々に作品を立ち上 げていく姿勢は、一貫したものである。展示での映像作品は、いずれも二〇〜三〇分程度の三本構成 をとっている。それらは、小森が編集した、それぞれ被写体の記憶と結びついた場所・空間を捉えた風景ショットと、実際に被写体の住人と過ごし、記憶に残る空間を訪ねたドキュメンタリー映像に、 フィクション要素を含むテクストが、被写体自身の朗読によって重ねられるという構造をとっている。 また、このテクストは、被写体との対話を経た上で瀬尾が再構成して書き下ろし、さらにそれを再度 被写体に差し戻した上で、本人と相談の上で適宜修正を加えるという、複雑な過程を経て生み出され たものである。(6)なかでも、三本目の「花を手渡し明日も集う」で、埋め立て予定地にそれでも花 を植え、花壇を作ろうとする住人たちの姿には、『息の跡』の主人公である種屋の佐藤さんとともに、 わたしの胸を打つものがあった。(7 )なぜ埋め立てられるとわかっていても花壇を作るのか、という 問いに「やりたいからやっている」と答えた女性住人の姿は、鮮烈な印象として今も記憶に残ってい る。
 さらに、現時点での最新作「遠い火|山の終戦」もまた、あくまで過去作の延長線上で捉える必要 のある作品である。二人は「波のした、土のうえ」で培った手法を再び用いつつ、今度は第二次大戦 の記憶について聞き取りを行った。そもそもの着想源として、インタビュー活動を続けているうちに、 終戦前後のことについて話したい、と自ら語るおじいさんに出会ったことを挙げている点がまた、実 に彼女たちらしい。(8)
 また、震災前の二〇〇八年冬にすでに作品制作のため宮城県の北釡地区に移住していた写真家の志賀理江子が、震災の衝撃を全身で受け止めたのちに作り上げた『螺旋海岸』の展示をはじめて目にし たときの驚きも、いまだに忘れ難い。(9)彼女の写真は、一方で明らかに何らかのコンセプトや独自 の感性が反映されたものであった。しかし他方で、解説や説明を読めば、作品そのものに触れずとも それがどんなものであるかわかってしまうような作品や、作り手のセンスのみで成り立つような類い の作品とは全く異なる圧力で受け手に迫ってくるものでもあったのだ。その後、写真集『螺旋海岸』と制作の過程を詳述した『螺旋海岸 note book』を読むに至って、初見で作品から受け取った印象が、 あくまでも被写体との関係から立ち上がる関係を核とするがゆえの、イメージの厚みとでも呼ぶべき ものから受けた衝撃であったことが納得できた。どうやって、どこまで偶然を取り入れながら表現を 突き詰めていくか。日々の暮らしの中でたまたま受けた刺激をどう作品化するか。そういった問いを 追求する上でこそ、おそらく、彼女にとっては被写体と一定以上の時間を同じ空間で過ごす準備期間 が、しばしば重要な意義を持つことになった。
 志賀の過去作『CANARY カナリア』、その制作過程を綴った『カナリア門』や、彼女のレクチャ ーの記録などを引きつつ鷲田清一が見事に跡付けているように、こうした彼女の問題意識は、写真家 として活動をはじめた当初より一貫したものである。(10)「偶然に遭遇し、目撃した光景を、その場で、 あるいは後日、再構成して撮る」彼女の手法は、印象的な光景をそのまま撮影していない点で、明ら かにフィクション性を含んでいる。しかし、あらかじめ脳内にある作品像を表現するような構成のあり方ともそれは決定的に異なる。「物語の停止」という志賀が用いる用語に注目しながら鷲田は、
(「CANARY」以降の)志賀にとって「撮るという行為はもはや《表現》なのではない。内的なもの を外へ押しだす(ex-press)試み、内的な衝動の表出といったものではなくて、なにかたぐり寄せる べきもの、手を突っ込んで摑みとるべきものだということになる。」(八〇頁)と述べる。その上で彼 は、志賀の写真行為に、「距離をとることとそれを抹消することの危うい拮抗のなかでなされるも の」(同)である《愛撫》という観念を重ね合わせようとする。この一種の「距離の詩学」こそ、被 写体と互いに触れられるような距離で、ある程度時間と空間を共有することでしか摑むことができな いものであろう。鷲田によれば、「おそらく震災の前と後で、志賀は根本のところでは何も変わっていない。それよりも、じぶんではない別の何かがじぶんの存在を蹂躙し、通り抜けてゆく、そういう 経験が起こる場所が、もはやプライヴェート・スペースとしての私室やアトリエや工房ではありえな くなったところにこそ、むしろ大きな変化はあった」(一一八頁)。この変化を経た空間・場所に、鷲 田は「社会」につながり得る道筋を見出している。わたしにとっても、この変化はきわめて強いリア リティを伴って感じられるものであった。同じくせんだいメディアテークと関わりながら作品制作を 行った、小森・瀬尾、濱口・酒井の試みもまた、形はそれぞれ違えども、被写体と時間・空間を共有 する準備期間の重要性を明らかに共有するものであったことは間違いないだろう。

 これらの作品群に共通して見出せるようなリアリティは、作り手が実際に長時間現地に滞在すること、その身体を被写体の前に晒し続けることなしには決して実現しえなかったものである。しかし、 いずれの作り手も、そもそも現地で生まれてそこで生き続ける地元の人間ではないし、今後東北に滞 在を続けるとは限らない(小森と瀬尾は、二〇一五年より仙台へと拠点を移している)。わたしには、 彼女たちの逗留のあり方は、たとえば震災後にいずれも大きな訴求力を持った、地元志向(宮藤官九 郎監督によるドラマ「あまちゃん」など)、観光志向(ダーク・ツーリズム、「福島第一原発観光地化 計画」など)のいずれとも異なり、あくまで「距離をとることとそれを抹消することの危うい均衡」 にとどまり続けようとする営みとして、きわめて重要なものであるように思われる。
 距離をとることと、それを抹消すること。わたしには、震災の被害を直接的に描いた文学のほとん どは、どうしてもその両極のいずれかに偏ったものに思えてならなかった。しかし、地震や津波、原 発をめぐる諸問題に限定されない、より広義の「震災後」についてならばどうか。たとえばわたしに とって、震災後を考えることはつねに、「空間」という問題と向き合うことであった。ある日突然住 む家、街が消滅したり、放射能に汚染されてしまったとして、その後自分は、どこでどのように生き 延びていくことができるのか。知人を含む決して少なくない人間が震災後に移住を実行する中で、こ うした問いもまた近年かつてない重要性を帯びるようになってきた。わたしが震災後に滞在制作型の アート作品に他にはない魅力を感じた理由も、この変化とおそらく無縁ではない。このような震災後 の「空間」イメージの変化が震災以前からの作家の関心と結びつくことで、距離をめぐる「危うい均 衡」にとどまる文学作品が生まれ得るのではないか。
 そこで本稿では、狭義の震災後文学を離れ、これ以降特異な空間イメージを持つ二人の現代作家を 取り上げ、その「生存の技法」に迫ってみたい。まず、坂口恭平においては、ギリギリの地点で危う い均衡を目指す「距離をとることと、それを抹消すること」の不断の往復運動が、そのつねに「空間」の問題をめぐる、多彩な活動に見出される。続いて村田沙耶香においては、そもそも他人や出来 事に対して適切な距離感を保つことが困難な人間たちが、ある種の均衡を保つために創り出した人工 的空間で育む淡い関係性に焦点が当てられる。震災の被害への直接的な言及の有無にかかわらず、彼 等の作品もまた、いわゆる「震災後」の状況について考える上で、間違いなく有益な示唆をわれわれ に与えてくれるはずである。


(1 )本稿執筆中の二〇一六年後半に公開されいずれも大ヒットした二本の映画、『シン・ゴジラ』と『君の名は。』は、震災から六 年近くが経過した段階ではじめて現れた、震災の要素を取り入れた総合的エンタテインメント作品であり、個人的に違和感と 反発なしに受け入れることができた、はじめての震災を扱ったフィクション作品でもあった。
(2)当然ながらこれはあくまでも私見であり、狭義の「震災後文学」の作り手や、受け手が作品から受けた印象を否定しようとす るものではないことを念のため付言しておく。
(3)彼女たちの制作スタイルは、実際に現地で交流もあったという濱口竜介・酒井耕による『東北記録映画三部作』などとも響き あうものを持っている。東北三部作を含む濱口監督の作品群については、「世界は情報ではない 濱口竜介試論」『ビジュア ル・コミュニケーション』南雲堂、二〇一五年、五三〜八九頁で詳細に論じた。
(4)Komori Haruka + Seo Natsumi http://komori-seo.main.jp/blog/activity/ における展示解説より。
(5)二〇一六年七月に Gallery 蔵(東京)で行われた巡回展を鑑賞。その展示をみる限り、巡回を繰り返す中で展示内容は常にアッ プデートされ続けているように思われる。
(6)濱口・酒井『東北記録映画三部作』もまた、彼女たちの手法と一部共通するような特異なスタイルで撮影されたインタビュー 場面から成る作品である。その制作過程と、新作『ハッピーアワー』に与えた影響については濱口竜介・野原位・高橋知由 『カメラの前で演じること 映画「ハッピーアワー」テキスト集成』左右社、二〇一五年に詳しい。また同書については以下の
拙評も参照。「自分が自分のまま、別の何かになる」ことをいかに励ますか」図書新聞、二〇一六年、第三二四八号。
(7 )「 3・ 11映画祭」で聞いた監督たち自身のコメントによれば、時間のなさも原因の一つであったそうだが、「花を手渡し明日も 集う」の終盤で、それまでと異なりテクストを執筆した瀬尾自身によって朗読が行われることも興味深い。ここでは、記録者 としての接し方以上に、花壇のイメージや種を植えるという営為に託された彼女たちの想い、虚構的な想像力がより率直に表現されているように思われたからである。
(8 )ARTZONE(京都)で二〇一六年五月から六月にかけて行われたグループ展、「記述の技術 Art of Description」出典時に配布されたテクスト、『「遠い火|山の終戦」によせて』を参照。
(9)本作品に関する最初の展示「志賀理江子 螺旋海岸」は二〇一二年一一月より翌年一月にかけて、せんだいメディアテーク(宮城)にて行われた。わたしが鑑賞したのは、三月一一日をまたいで二〇一三年の一月から四月にかけて国立新美術館(東京)にて行われたグループ展、「アーティスト・ファイル –現代の作家たち」に巡回した際のバージョンである。
(10)鷲田清一「強度 志賀理江子の〈業〉」、『素手のふるまい アートがさぐる〈未知の社会性〉』朝日新聞出版、二〇一六年、六 七〜一二〇頁。


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