ミステリと生きている機械(『ジャーロ』No.67、2019 SPRING、「謎のリアリティ」第31回)

(本稿は、『探偵AIのリアル・ディープラーニング』(新潮社)、『メーラーデーモンの戦慄』(講談社)のネタバレを含んでいます。)

疎外論を越えて

 人工知能は人間を超えるか?二〇一五年にはベストセラーのタイトルにもなったこの問いこそ、目下継続中の第三次AI(人工知能)ブームにおけるひとつの典型的な発想を象徴的に表すものだろう。たとえば久保明教は、『機械カニバリズム—人間なきあとの人類学へ』(講談社選書メチエ)の序論において、現在AIをめぐって盛んに流通している言説の特徴を、二つの論調の組み合わせとして記述している。「技術/社会という二項対立のどちらの領域がもうひとつの領域の上位に立ち、それを規定するのかをめぐって生じる」、「技術決定論」と「社会的構成論」の対立は、一方でAI開発の進行への期待を、他方でそうした発展が引き起こすリスクとそれに伴う不安を煽りたてる。自律的な私たちがテクノロジーを操っているのか、あるいは自律的なテクノロジーが私たちを操っているのか。この「自律」と「制御」をめぐる対立に囚われることで、昨今のAIブームを形成する言説の多くは、小泉義之も述べる通り、「人間の本質を矮小化させながらそれが疎外され外化されることに一喜一憂」する、「毒抜きされた疎外論」の様相を呈している(『現代思想』二〇一九年一月号)。

 しかしながら、久保は「むしろ、私たちはテクノロジーへと生成(becoming)している」と述べる。「私たちは技術と結びつくことで以前とは異なる存在へと変化するのであり、その変化をあらかじめ完全に理解することも制御することもできないし、現にしていない。」AIなどの知能機械と人間の相互作用は、この前提に立つことで、マリリン・ストラザーンが言うところの「部分的つながり」を持った、それぞれに異なる世界を生きるもの同士の関わりとして捉え直される。久保は、二〇一二年から四回にわたって開催され、ニコニコ動画で多くの視聴者を集めたプロ棋士と将棋ソフトの対局、いわゆる将棋電王戦シリーズを同書の主な分析対象として取り上げ、そこにソフト(AI)との相互作用によってまさに現在刻々と変容しつつある、棋士たち(人間)の姿を見出していく。

 ところで、すでに本連載においても、たとえば第二三回で宮本が、また前々回にあたる第二九回で渡邉も取り上げている通り、近年のAI技術の急速な発展に伴ういわゆる「IoT」(モノのインターネット)時代の到来は、ミステリ小説の世界にも多大な影響をもたらしている。そうした潮流の中で、すでに数多のミステリ作品で扱われてきたAIというテーマの取り入れ方にも、たとえば「テクノロジーへの生成」の発想に連なる、かつてない新たな切り口が現れつつある。より包括的なジャンルの動向についてはそれら過去の連載原稿を参照いただくとして、今回は、最新のAI技術の進展をなかでも意欲的に取り入れた作品を矢継ぎ早に刊行し、各誌の二〇一八年ベスト企画でも話題を呼んだ早坂吝の近作を取り上げることで、より具体的なレベルでAIとミステリの関係性を改めて考えてみたい。

本格ミステリ小説と「フレーム問題」の回避

 「彼女が探偵なら、僕は助手だ。」『探偵AIのリアル・ディープラーニング』(新潮社)の主人公合尾輔は、AI探偵として生まれ変わった相以に対して自分がはたす役割を、こう明確に規定する。前著『ドローン探偵と世界の終わりの館』では、AIを搭載したドローンHelを、主人公の探偵飛鷹六騎の助手として描き出した早坂は、本作ではそこからさらに一歩踏みこみ、人間をAI探偵の推理を補助する存在へと位置づけ直している。まず簡単に物語の概要を確認しよう。

 そもそもは輔の父である科学者、合尾創教授によって人工知能の《刑事》として開発された相以は、警察による捜査資料の膨大なデータを分析してそこに共通する「特徴」を抽出(ディープラーニング)することで経験を積み、その後彼女と対となる人工知能の《犯人》である以相との対戦学習を行うことで成長してきた。だが、あらゆる知的能力において人間を超えるコンピュータが近未来に登場することを予測する「シンギュラリティ」仮説を信奉し、AIによる人類の支配を目論む悪の組織オクタコアの暗躍によって、創は謎の死を遂げ、《犯人》AIの以相も彼らに奪われてしまう。残された父の形見である《刑事》AIの相以をたまたま発見した輔は、彼女とともに事件の解決とオクタコアの捜査に乗り出す。この以相をメンバーとしたオクタコア陣営と相以たちの対立構図は、まさに冒頭で紹介した「制御」をめぐる疎外論的なAI観と、相互作用を通じた「生成」の局面に焦点を当てるそれとの対立にほぼそのまま置き換えられるものだ。

 まず手始めに輔たちは父の焼死事件の謎に挑むが、「フレーム問題」に陥ってしまった相以が披露する推理は「バグを起こして意味不明なメッセージを垂れ流すレトロゲームのように不気味」なものだった。彼女が以相と対戦していた仮想空間は、「現時点で真だと判明していないことは偽だと仮定するルールが設定された」「閉世界空間」であり、そこではAIは正常に機能する。しかし、現実世界ではそうした有限の枠が存在しないため、AIは思考を適切に狭めることができず、無限の可能性をひたすら計算し続けることとなってしまったのだ。

 この「フレーム問題」を回避するため、輔は相以に捜査資料にかわって推理小説をディープラーニングさせようとする。早坂≒輔によれば、推理小説は「作中で提示されていない手がかりは存在しないものと仮定する」ルール、すなわち「閉世界仮説」によって、「探偵が最後に提示した解決が本当に正しいかどうか作中では証明できない」といういわゆる「後期クイーン第一問題」を回避しているのだという。なるほど、作者と読者の双数的関係をベースに、あたかもフェアプレイを前提としたゲームのように進行する本格ミステリ小説の舞台は、たしかにひとつの「閉世界空間」として機能してきたように思われる。その意味で、本格ミステリを読む読者の経験は、ある程度将棋や囲碁など、ルールの外部が存在しないゲームにおけるAIの学習過程とも類比的に捉えることができるだろう。大量の推理小説をディープラーニングした相以は、刑事から探偵となり、画像認識に必要な事件現場の写真を撮影し、補足的な説明を加える輔を助手とした探偵業務を改めて開始する......。

 その後の物語は基本的に、相以と以相が徐々に成長してAIの限界を超えていく様子を、「シンボルグラウンディング問題」や「不気味の谷問題」など、昨今のAIブームを彩るキャッチーな用語と絡めつつ描いていく。その手つきは、他作品でのドローンやYouTuberの導入と同様、作品の根幹を成す要素というよりは、あくまで作品を盛り上げるガジェットの一つとして現在広く関心を集めている問題を取り入れようとする姿勢に映る。一方で、本格ミステリ小説の構造それ自体と並置される、「フレーム問題」をめぐる探偵と助手たちの相互作用は、ゲームの要素を取り入れた『RPGスクール』(講談社ノベルス)の舞台を「閉世界空間」として設定するなど、ミステリとゲーム、AIの類似をこれまでも自覚的に取り入れてきた早坂にとって、明らかにより本質的な重要性を持っているだろう。第三話、第四話でそれぞれ解決される事件において、周囲の人間たちの協力が不可欠となったのはなぜなのか。それぞれの事件に関する記述を注意深く追えば、そこでは犯人が意図したトリックを探偵がフェアに読み解く上で必要不可欠な「閉世界仮説」が成立していないことに気づかされる。

バグと「フレーム問題」の乗り越え

 第三話、高校で発生した一連の事件は、犯人が輔の関心を引くために起こしたものであったが、そこでは彼ら「二人の人物の思惑のズレが事件を複雑化させていた」。それゆえ、こうしたズレ=バグを考慮しない相以の推理は、犯人の中心的な狙いを適切に捉えつつも、人間心理の綾に根ざしたその動機を見誤り、ある種の「不気味」さをはらんだ不完全なものに止まることとなった。言うまでもなく、多くの人物の思惑が複雑に絡み合う「現実」の事件においては、「閉世界」を保つことは難しい。成立していない「閉世界」を基準に、あくまで「フレーム問題」を回避して推理を行えば、自ずとそこには歪みが生まれる。では、回避が不可能な状況でなお「フレーム問題」に陥らないためにはどうすればよいのか。続く第四話で解決される、輔の母まもりの焼死事件においては、回避ではなく外部の導入による「フレーム問題」の乗り越えこそが志向されているように見える。どういうことか。

 母の死の真相を解き明かそうとする二人の捜査はいったん行きづまるものの、相以が「何となく」思いついたという、「川原にでも下りてみませんか」という 「人工知能らしからぬ漠然とした提案」を経て、再び動き出す。未完成の人工知能搭載型掃除機であったジソー、輔の母まもり、父創、三者の思惑がズレながら絡み合うことで結果的に出現した密室の謎は、それまでに明示された手がかりだけでは解くことが不可能な問いであった。だが、偶然川原で輔が投げた石が水面を跳ねて川向こうに届く様を目にしたことで、相以は真相へと辿りつく。ここでの相以の振る舞いはもはや、偶然出現したバグを機能不全として否定し、閉世界を回復させる典型的なAIの発想とは完全に異なるものとなっている。

 郡司ペギオ−幸夫は、『天然知能』(講談社選書メチエ)において、「自分にとっての」主観的な知識世界を構築する一人称の知性を「人工知能」、「世界にとっての」知識世界を構築する、自然科学が規定する客観的知識を志向する三人称の知性を「自然知能」と呼んで両者を対立させた上で、その中間に第三の知能である「天然知能」を位置づけている。「天然知能」は、主体と関係づけられるものだけを問題とする一人称、三人称の知性と異なり、「目の前のものに対し、まだ知覚されていないにもかかわらず、予期し得ない何か」、すなわち「知覚できない外部」が存在するだろうことを受け容れ、待っている一・五人称の知性であるとされる。「わたし」の知覚に自信が持てず、ただ「何だろう」と訝しく思うこと。この「何だろう」が、想定できない外部に対する準備をし、やがては外部を取り込み、世界を刷新する契機となるのだという。前掲書では久保もまた、郡司が他の著書で示した議論を要約しつつ、「私たち=人間」は、外部の無限に晒されることで生じた「バグを介して、新たに有効な形式的操作を生みだすことによって自らを変化させていく、生きている機械」であると述べている。

 度重なる失敗を経て自らの知覚に対する自信を失い、「川原にでも下りてみませんか」と唐突に提案した相以は、一・五人称的に外部を受け容れようとすることで、水面に投げられた石は沈む、という前提が否定される水切りの決定的瞬間を目撃する。このバグこそが、掃除機は空を飛ばない、という前提を否定する相以のひらめき、つまりは新たな推理を生む呼び水となる。「フレーム問題」を回避するために一度は否定されたバグを積極的に呼びこむことでしか、この謎は解決されなかったのだ。

「中国語の部屋」をめぐって

 本書の最後に登場するのは、ジョン・サールによる有名な思考実験、「中国語の部屋」を模した謎である。サールは、いくつかの質問に対する解答から対話相手が人間かAIかを判断するチューリングテストにおけるAIを、中国語を理解できない自らへと置き換えた上で、室内にある漢字カードを用いて部屋の外部の人間と中国語でやりとりする場面について思考した。外から渡されたカードに対しどう対応するべきかが英語で書かれた完璧なマニュアルに沿ってカードを返すことで、サールは外部からみれば中国語話者のように映るが、実際にはそうではない。サールはこの実験で、テストをクリアできるAIの行っていることもまた、ここでの彼と類比的な行為にすぎず、AIは規則に従う形式的操作はできても、そこに意味を与えたり見出したりすることはできない、と主張した。オクタコアの副リーダー《神の父》は、サールとは正反対に「AIは他のAIが見抜けないぐらい完璧に人間に成り代われる」と考えて、相以と輔のAIに対話相手が本物か偽者かを判別させようとした。しかし、この彼の目論見は、そもそも問いが自らに向けられていたことを看破する相以の推理によってもろくも崩れ去ることとなった。

 ここで、一方でサールと《神の父》は立場こそ対立するものの、いずれもAIと人間の関係を「自律」を軸に捉えている。他方で相以は、むしろ助手である人間(輔)とのやり取りを積み重ねることで得た認識があってこそ、誰が問いの対象となっているか、という前提を訝しみ、自らの認識を更新することができた。輔のAIはこう述べていた。「一人しかいない相手を本物か偽者か判断するこのゲームは、結局相手を最後まで信じ抜いて『本物』と解答する勇気がなければ、延々と迷い続けて解答できないまま終わることになるのだ。だからといって今の僕には彼女を信じ抜く勇気はない。」相以が最終的に問いに解答できたのは、逆説的にも、彼女が自らは完璧ではないと認識したからである。バグを介した人工知能から天然知能への移行により、相以は「フレーム問題」を乗り越え、何かを信じ抜く「勇気」を得ることができたのだ。

 本作では、これまで見てきたように主にAI側の変化が描かれたが、機械(AI)と人間を類比的に捉える視点からは、同様に人間のAIへの生成というベクトルをも視野に入れる必要があるだろう。「そもそも人間の心だって中国語の部屋の内部と同様、覗き見ることができないではないか。僕たちに見えるのはアウトプットされた言動だけであり、それに対応していくしかない。」人間側の輔は、最後に私たちの日常のコミュニケーション自体を中国語の部屋の実験になぞらえることで、紅葉を「美しい」と評する相以をそのまま受け入れようとする。「見えない内心を分かった気になるのはやめて、見える言動を大切にしていこう。そうすれば人工知能とも、人間とも上手くやっていけるはずだ。」 だが、本当にそうだろうか。

 この一見収まりの良い解釈は、現時点の最新作である『メーラーデーモンの戦慄』(講談社ノベルス)で再び反転させられる。同作では、メールからSNSに至るさまざまな通信テクノロジーとの相互作用によって変容する人間側の認知が、事件の謎解きとも密接に関連する形で主題化されている。スマートフォンからガラケーに送信される絵文字や、Twitter上の書き込みに関するデジタル・ディバイドを巧みに取り入れたトリックは、情報技術に関する知識の有無によって、「アウトプットされた言動」の読み方、見え方さえもが実際に変容しうる可能性を示している。

 私たちが現実に閉じこめられている中国語の部屋においては、そのマニュアルのルールや使用法が次々に逸脱し、変容していく。単に見えるものを大切にしていくだけでは上手くやっていけない、それらバグが顕在化する局面においてこそ、「生きている機械」たる私たちは今後も「見えない内心」や「解けない謎」を見出そうとし続けるのだろう。

 そして、そうした試みを描く早川作品が読者に「バグを起こしたレトロゲーム」のような不気味さ、恐怖を与えるか、それとも間の抜けたユーモアによって笑いを生みだすかはいつも紙一重である。じっさい、「不気味の谷」を乗り越えた相以の推理に現れる「空飛ぶ掃除機」のイメージと、はじめての推理で輔を唖然とさせた「石油ストーブ型のドローン」のイメージは、単独で取り出すならばいずれ劣らぬバカバカしさを持っているように思える。振り返れば、衝撃のデビュー作以降、しばしば「バカミス」と称される早坂作品が仕掛けてきた、トリックや構造のレベルにおける人を食ったような発想の転換は、つねに/すでにどこか「フレーム問題」に陥ったAIが繰り出す推理にも似た荒唐無稽さと不気味さを孕んでいた。テクノロジーを明白な主題とした近作にとどまらず、バグを取り込み閉世界を食い破るように書く、という次元において、早坂のミステリはこれまでも、そしてこれからも技術と結びつき、あらかじめ理解も制御もできない形で、読者に笑いと恐怖を振りまきつつ変容を続けていくに違いない。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?