『現代アメリカ文学ポップコーン大盛』書評(初出:図書新聞3494号、6面、2021年5月)

   できたてのポップコーンを熱いうちに鷲掴みにして食べたい。2016年の学会シンポジウムをきっかけとしたWEB連載の書籍化である本書は、まずはこの欲求から生まれた一冊である。SNSの浸透を経て、近年ある作品がバズり、あるいは炎上し、そして忘れ去られるまでの時間は劇的に加速した。たとえば、あなたは五年前に流行した音楽や配信ドラマをすぐに思い出すことができるだろうか。即時性が重視されるこうした文化の傾向に照らして、主に邦訳出版のタイミングで作品が国内に紹介される現代アメリカ文学は、あまりに遅すぎる。いつでも好きなものができたてで食べられる環境下で、冷めたポップコーンをありがたがる人間がいるだろうか。「おわりに」で矢倉が強調する失われた「手ざわり」を取り戻す試みは、たとえば彼がクリステン・ルーペニアン作品の受容やニック・ドルナソに、日野原がアダム・ジョンソンに素早く見出したSNS時代の感性、そして本書全体を貫くBLM運動や#MeTOOへの作家たちの応答のタイムリーな紹介に見てとれる。しかし、そうした連載時の問題意識に加えて、増補を経た書籍化は読者にまた別の時間性を意識させるものでもある。本書の企画スタートから出版までの過程は、ほぼアメリカのトランプ政権期と重なる。その意味で本書は、トランプ時代における作家たちの活動と、それに対する研究者たちの反応のドキュメントとしても読めるものとなっている。
 近年の調査によれば、アメリカを象徴する菓子の代表格であるポップコーンとほぼ同じものが、そもそも紀元前に現在のメキシコに当たる場所ですでに食べられていたという。排外主義を推し進めたトランプの意図に反して、「アメリカ」はつねにすでに多様性や越境の要素を孕んでおり、その混淆性は近年さらに増し続けている。4章で加藤、藤井が論じるアジア系をはじめとする移民作家たちの小説、5章で佐々木が紹介するLGBTQ作品やレインボー・ブックリスト、6章で日野原が注目するFATをめぐる物語群は、いずれもアメリカにおいてとりわけトランプ時代にあって「のけ者にされてきた」(佐々木)者たちの文学であり、それらの作品群における言葉に寄り添うことは、今日の研究者たちにとってますます急務となっている。また7章では矢倉が、グラフィック・ノベルやドラマ、ゲームを取り上げ、「文学」の定義拡張を試みてもいる。加えて、よりダイナミックな越境の試みとして重要なのが、8章で前景化される翻訳の過程だ。矢倉が分析する多和田葉子作品における日本語から英語への翻訳、そして里内が比較するマーク・トウェイン作品の複数の日本語訳、さらには吉田が詳述する手話と英語の往還は、いずれも「アメリカ」と「文学」の枠組みを揺さぶり再構築する刺激的な営為である。
 しかしながら、こうした拡張の諸相は、「マジョリティの自己肯定」に繋がる「都合のいい範囲での」「中途半端な」多様性(藤井)をことほぐものに過ぎないのではないかという懸念もまた、ある程度執筆者たちに共有されているだろう。ブレット・イーストン・エリスは『ホワイト』において、本書の座談会ではひとまず「正しさの時代の文学」としてまとめられているこうした潮流を「美学」よりも「イデオロギー」を重視する傾向として要約した上で、そこに最も鋭利な批判の刃を向けている。同様に青木が取り上げる近年のチャック・パラニュークやトレイ・パーカー&マット・ストーンの迷走もまた、トランプ時代の空気に対して彼らがそれぞれの形で感じている息苦しさを反映しているように見える。
 彼ら「X世代」の作家たちの現状への嘆きは、筆者には切実かつ可愛げのあるもののようにも思えるのだが、一方で、筆一本では生計を立てられない状況下で自作の流通や正しさをめぐる葛藤を前提として作品に書きこんできたエリスの言う「腰抜け世代」の作家たちや、彼ら以降の世代に属する者たちの多くにとっては、先行世代の特権を反映した戯言でしかないのかもしれない。しかし他方で、世代間の断絶や対立を超えてなお、今後新たな古典として広く読み継がれるであろう「正しさ」と「面白さ」を兼ね備えた作品が続々と生まれていることも確かである。じっさい、青木も強調するようにエリスは、最近読んだ最も偉大な文学としてコルソン・ホワイトヘッド『地下鉄道』と並んで、本書でもたびたび言及されるジェスミン・ウォード『歌え、葬られぬ者たちよ、歌え』をあげてもいる。ハリケーン・カトリーナの生存者としての立場から激化する差別の現状や警察の黒人への横暴を作品に組みこむウォード文学の「正しさ」は、ウィリアム・フォークナーやトニ・モリソンを継承する彼女の「美学」と決して矛盾しない。藤井やゲストとして座談会に参加した柴田元幸が評価するナナ・クワミ・アジェイ=ブレニヤーや加藤が論じるハニャ・ヤナギハラなども含め、「イデオロギー」と「美学」を両立する新世代の作家はすでに数多く出現しているのだ。
 ところで、本書を貫く拡張の主題については、特に末尾の座談会においてもう一つの見逃せない問題提起がなされている。訳書の選定から本屋での棚作りに至るまで、「アメリカ」や「文学」の指すものをひたすら多様に「拡張」することは、同時にそれらが固有の輪郭を失い「拡散」してしまう危険性を孕んでもいる。そうした文学をめぐる組織・制度と流通の問題を今後考える上でまず何よりも貴重な資料となるのが、3章で吉田が展開する創作科の現在をめぐるルポルタージュだろう。「商品としては成立しない時期」を迎えるかもしれない今後の文学シーンにおいて、創作科は作家に生活の手段を供給するとともに、それ以上に「読者を育て、裾野を広げる」プログラムとして重要度を増していくと思われる。そうした試みが積み重なった先にこそ、「アメリカ文学」の輪郭を排外主義とは無縁の形で再構成する道が見えてくるのかもしれない。
 もちろんこの書評もまた、制度と流通をめぐる問題と無縁ではない。そこで最後に、本書出版後の展開についても簡潔に述べておきたい。加藤によるトミー・オレンジ『ゼア・ゼア』の邦訳を皮切りに、藤井のリン・マー『断絶』、加藤、日野原のモナ•アワド『ファットガールをめぐる13の物語』など、本書における紹介者自身の手になる訳書の刊行が次々に進んでいる。未読の原書をめぐる本書の記事に誘惑されて訳書を手に取る読者たちが増えることは、間違いなく矢倉が座談会で問題視した現代アメリカ文学をめぐる「名前の育て方」の新たな回路を構築する一助となるはずだ。

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