書評:濱口竜介・野原位・高橋知由 『カメラの前で演じること——映画「ハッピーアワー」テキスト集成』左右社、二〇一五年。[初出:図書新聞 (3248) 2016年3月26日号、2面]

 本書は、全国で順次公開され大いに話題を呼んでいる映画『ハッピーアワー』の制作にまつわるテキストを集成した一冊であり、映画同様に三部構成から成る。五時間超の大作は、いかなる経緯と方法論で制作されたのか。短い序文に続く第一部「『ハッピーアワー』の方法」で濱口竜介は、撮影に先立って開催された「即興演技ワークショップ in Kobe」(以下WS)や過去作に遡って、その多様な「準備」の過程を自ら解き明かしている。

 どうすれば、その多くが演技経験を持たない演者たちが、カメラの前でそれぞれ固有の魅力を発揮することが可能となるのか。演者が「日常には現れない、私自身の何か」=「はらわた」で反応することを励ますために、周囲はどのような支援を行うことができるのか。これらの問いを巡る試行錯誤の過程でまず浮上するのが、「聞く」ことの重要性である。

 濱口は、本書第三部の自作解題を付したフィルモグラフィでも紹介されている『東北記録映画三部作』、とりわけ『うたうひと』に出演した民話の語り手/聞き手である小野和子の活動に触れる中で、聞かれているという実感、自身に関心を示す他者の存在を感じられることが、話し手の声に複声の「分厚さ」をもたらす助けとなることに気付いたという。「未来の無限の他者の眼差し」であるカメラの前で演じることは、つねに自らがどう見られるかを制御できないという、恐ろしいリスクを孕む。しかし、同時に自身を率直に表現する「分厚さ」を伴った「いい声」とともに、被写体の魅力や価値を未来へと届け得る可能性を含んでもいる。小野が聞き手として、民話の語り手からこの魅力を見事に引き出した事例を劇映画に応用するため、WSでは時にカメラを交えて演者・演出家・スタッフが相互に聞きあう「対話」が繰り返された。その結果、ユニット「はたのこうぼう」(濱口・野原位・高橋知由)は繰り返し脚本の改稿を行い、同時に演者に向けた二種類のサブテキストを執筆することとなった。

 第二部には、サブテキストの一部と、演者が撮影現場に持ち込んだ第七稿の脚本が収録されている。前者は映画には登場しない「過去におけるキャラクター同士の関係性、もしくは脚本で進行している事態の「裏」を示す」ために書かれたものである。あくまでも「物語上の正解」を表すものではないとされたそれらのテキストは、演者たちが自らの役柄に関心を向け、その声を聞く助けとなったはずだが、加えて、観客が各キャラクターの「分厚さ」を感得するための支えにもなり得るだろう。本書に触れた後に作品を観直せば、誰もが自らが抱く印象の変化に気付かされるはずだ。

 さらに興味深いことに、後者の脚本にも、本編には登場しない台詞がいくつか書きこまれている。ある研究会での濱口自身の解説によれば、その中にはあらかじめ、撮影現場では読まれないことを想定した上で書かれたものもあるという。たとえば映画第三部終盤の、「謝る」ことを巡って桜子がためらう場面。本編ではシンプルに謝罪を拒否する桜子の心情の揺れが、脚本にはより詳細に書き込まれている(二一三頁)。『ハッピーアワー』が、相田冬二が述べるように「建前を否定しない」(『週刊金曜日』一〇六二号)映画であるからこそ、物語の末尾でついに建前を否定するに至る彼女の身振りのぎこちなさは、観客の胸を打つ。この決定的変化を示す重要な場面で濱口らがサブテキスト的な台詞を書き加えたのは、間違いなく彼女の演技を励ますためであろう。こうした演出はどこか、「『東京物語』の原節子」(『ユリイカ』二〇一六年二月号)において濱口が分析した、原節子に対する小津安二郎による演出を想起させる。

 ある台詞に対する演者のからだの「言えなさ」、カメラの前で演じることに対する「恥」の強い抵抗をどう捉えるか。再び小野との対話を通じて、濱口はひとつの暫定的結論に至る。恥を捨てることで役柄と自己を切り離すのではなく、「自分自身の最も深い恥によって、自分自身を支えること、助けること」(五一頁)こそが、目指されねばならない。演者はカメラや対話の相手、テキスト、役柄と対峙することで、自身の「最も深い恥」に出会う。その場所を「はらわた」と呼ぶとすれば、「はらわた」で反応して「カメラの前に立つ」こと、「聞き」、「読む」こと、そして「演じる」こととは、いずれも「恥」に導かれた自己の「吟味」と同義である。「自分が自分のまま、別の何かになる」可能性は、不断の「吟味」を通じてのみ立ち現れる。先にあげた桜子の逡巡の場面は、全編を通じて観客が長時間寄り添い続けてきた、他ならぬ彼女固有の「恥」と結びついた「吟味」の痕跡ゆえに、あれほどまでに魅力的なものとなったのではないか。

 最後に、映画『ハッピーアワー』、そして本書は演者のみならず、われわれ観客や読者の「はらわた」に働きかけるものでもあることを強調しておきたい。自らの「恥」を通じて「自己の吟味」を行うよう絶えずわれわれを励まし触発する、本書に込められた多くの「声」にぜひ耳を傾けていただきたい。(アメリカ文学/文化)


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