「日本らしさ」と「アメリカの影」 :遠藤不比人編『日本表象の地政学 海洋・原爆・冷戦・ポップカルチャー』(彩流社、2014年)書評

・最近パンクについて久々に考えていてこの本の存在を思い出したのだが、調べてみたら10年ほど前に授業の課題で書いた書評が出てきたので再掲。源中由記さんの文章をぜひまた読みたいのだが最近は何をされているのだろうか・・・。

 全部で四部・八章からなる本書、遠藤不比人編『日本表象の地政学 海洋・原爆・冷戦・ポップカルチャー』(彩流社、2014年)の構成と各論文の意義については、編著者遠藤による序文において的確かつ簡潔にまとめられている。そこで本稿では、本書の構成と異なる以下の二つの視点からまとめ直す形で改めて本書の射程を提示してみたい。
 第一に、いわゆる「カルスタ」、「ポスコロ」的な日本表象批判を、空間的にも時間的にも、従来の研究以上にその射程を拡大して論じている点があげられる。近年の「惑星思考」以降の潮流を踏まえ、米文学者ユンテ・ホアンらの提唱する「環太平洋」的地政学に注目した文学研究の方法論を日本表象研究に応用することで、各論考の議論が、これまで見過ごされてきた日米関係を中心とする環太平洋的なさまざまな影響関係を明らかにしていることは、空間的拡大という観点からまず特筆に値しよう。たとえば、第三章の福原麟太郎論、第六章の古川緑波論は、戦後に彼らが抱いていたアンビヴァレントな対米観と日記や作品の関係を豊富な資料から見事に解き明かすことで研究に新たな光を当てているし、アメリカでの川端康成受容に着目した第五章の議論は、川端自身の意図に関わらず、ノーベル賞受賞スピーチを含むカワバタ需要の過程と冷戦リベラリズムの反共レトリックがある種の共犯関係を持ってしまっていたことを暴いている。また、第一章、第二章は、それぞれ田中鶴吉と小谷部全一郎、米窪満良という比較的マイナーな対象を扱いつつ、いずれも従来日米関係に関する研究の中心となってきた戦後から大きく遡り、開国前夜から戦前に至るまでの「環太平洋」的地政学の影響を詳細に跡付けている点で重要である。空間的拡大と並び、この時間的拡大もまた本論集の主要な達成のひとつであろう。
 第二に、「アメリカに同一化することでアメリカと差異化しようとする」、「根源的に矛盾した欲望」(11)に駆動された日本の右派言説を「環太平洋」的地政学に基づき再検討した点があげられる。戦後を代表する保守派/右派論客であった、福田恆存と三島由紀夫を扱った第四章と第六章はそれぞれ、単に右派として片づけられることが現在でもしばしばある二人の思想に、複雑な「アメリカの影」を見出す。複数の既存の物語を奇妙な形で接続する福田の戯曲に見られる「解りにくさ」あるいは混濁、晩年の三島のカタカナ英語の濫用、ボディビルや「アメリカナイズ」された生活の享楽的享受といった、二つの論文における細部への注目が明らかにしているように、二人は、表面的な反米の身振りの裏で、ある意味で無意識に「アメリカ」を承認/容認しつつ各々の想定する「全体性」を追求した、という点で軌を一にする。三島は国体としての天皇に、福田はアメリカにそれぞれ「全体性」の根拠を求めたのだ。中でも、こうした三島の(おそらくは福田にも共通する)反米/親米に引き裂かれた矛盾は、フロイトの言語における「去勢」の肯定と否定に対応するものであり、「フェティシズム」に該当する(179)との指摘は極めて重要であろう。いかにも「プラトニズム的な「内在性=真正性」」(11)に担保されているかのように見られがちな二人の保守派/右派言説が、その実つねに/すでに「アメリカの影」の元、「環太平洋」的相互作用の産物であったこと。この認識は日本国内にとどまらず、現代における右派の言説/行為の含意を再検討していくための前提として不可欠なものであろう。
 しかし、三島のフェティシズムと現代の首相の行為を接続する遠藤による第六章最終部の議論にはある違和感が残るのも確かである。たとえば、近年マリーヌ・ルペン率いる極右政党が支持率トップに躍り出るなど、日本同様右傾化の傾向が顕著なフランスでは、抑圧や「去勢」の機能低下によって、疾病分類で「フェティシズム」に該当するような強烈な症状を持った患者が激減し、代わりにより軽度な倒錯(フェティシズムからフェチへ?)とでも言うべき症例が増加しており、そうした状況に対応するため、精神分析家ピエール・ルブランが提唱した「ふつうの倒錯」という概念が話題を呼んでいるという。ルブランやこの概念を詳しく紹介している立木康介(『露出せよ、と現代文明は言う』(河出書房新社、2013年))の議論に従うならば、現代においては、三島や福田の言説や行為が孕んでいた複雑さ、矛盾の前提となっていた「去勢」や抑圧がそもそも成立していない、という断絶こそがまず考慮されなければならないのではないか。首相によるラルフローレンやプレスリーへの愛着といった三島的狂気の「凡庸な反復」(183)は、もはや神経症的な主体概念を前提とする旧来的な精神分析の対象とはなりえないように思われる。
 では、こうした「去勢」、抑圧が無力化した状況下でなおなんらかの「全体性」あるいは「真正性」を希求することはいかにして可能となるのだろうか。こうしたより射程の大きい問いに答えるためにも、本書の議論は有用なものとなるだろう。その一例として、最後に源中由記による第八章のピチカート・ファイブ論に触れておきたい。七章までの論点を引き継いだうえで現代文化における「真正性」について思考するために、一九八〇年代後半以降を扱うこの論文は極めて有益な示唆を与えてくれる。まず紹介される山下達郎やミュージックマガジン誌によるアルバム『ベリッシマ』批判は、先行するブラックミュージックの歴史を抑圧として内面化しているか否か、に関するものであるとひとまずは要約できる。「汗」や「魂」といった比喩に込められているのは、歴史の蓄積を単なる編集素材として扱うような「編集者気質」に対する(自己の音楽もまた編集の結果に過ぎないかもしれない、という疑念・恐怖をはらんだ?)近親憎悪にも似た批判であろう。この論争に欠けていたのは、あらゆるポピュラー音楽は「編集者気質」の産物である、という構築主義的な認識であるが、しかし一方で「「編集者気質」に無限の可能性を標榜するのは無邪気にすぎる」(229)と筆者は釘を刺す。オリジナルなきポピュラー音楽の世界でもなお、表現にある種の「真正性」を付与する道はあるのか。最後に示唆されるのが、「パンク」というコンセプトである。『さ・え・らジャポン』におけるバート・バカラック風の「君が代」のように、巧みに文脈をずらしてオリジナルの「露骨な模倣」を行うことで、歴史性に配慮しつつも盗作と扱われず新しい商品として市場に流通するような作品を作り上げること。こうした「編集者気質」の達成としての「パンク」の美学こそは、抑圧なき時代においてなお、抑圧や去勢を偽装することで歴史的正典として位置づけられる可能性を保ち続ける、ある種の「真正性」を希求するコンセプトたり得るのではないだろうか。 

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