ケン・ローチ『家族を想うとき』作品評 「家族が隣人を想うとき」(初出:『キネマ旬報』1828号、109-111頁。

 はたして、「家族を想うとき」は本当に家族についての映画なのだろうか。もちろん、ケン・ローチ自身も語っている通り、本作において家族のテーマが重要であることは間違いない。しかし、この映画で家族の関係性が物語の中心を成していることは、むしろそのことで代わって失われたもの、すなわちコミュニティの不在を、より強く観客に印象付けるのではないか。

 本作は、銀行の破綻を機に建設業の職を失い、給料の安い職を転々としながら賃貸住宅で家族と暮らしてきた主人公リッキーが、個人事業主の宅配ドライバーとして独立することを決意し、本部のマロニーと面接するところから始まる。1日14時間週6日、2年間も働けば、一度は諦めた妻アビーと子供二人と暮らすマイホームを購入できる。その日暮らしを続ける日々から抜け出すため、アビーの車を売却して新たにバンを購入したリッキーは、ドライバーの仕事を開始する。一方で車を失ったアビーは、自腹で交通費を支払ってバスで移動しながら複数の介護先を掛け持ちし、合間に二人の子供たちに留守電で連絡を入れる、慌ただしい日々を送ることとなる。こうした新生活によって家族で共に過ごす時間が激減したことで、息子のセブ、娘のライザ・ジェーンにもそれぞれ問題が降りかかる。

 カンヌ映画祭で二度目のパルムドールを受賞した前作「わたしは、ダニエル・ブレイク」(16年)で一度は引退を決意したローチが再びメガホンを取ったきっかけは、前作の印象的な場面の舞台となった、フード・バンクの取材にあったという。そこに来ていた多くの人々は、週あたりの労働時間が決まっておらず、雇用主の要請がある場合のみに働く、いわゆる「ゼロ時間契約」で働いていた。このギグ・エコノミーと呼ばれる新たな搾取のシステムは、前作における国からの援助制度とはまた異なる形で、彼らが適切な敬意を払われ、市民として自尊心を保って生きることを困難にする。このことが、ローチと長きにわたり彼の作品の脚本を担当してきたポール・ラヴァティに、もう一度映画を制作させる動機を与えたのだ。

 リッキーは、労働者が得られてしかるべき多くの権利を与えられないまま、さまざまな義務と責任を負わされて、あくまでも自発的であるという名目で長時間働くことを余儀なくされる。疲れがたまり、ユーモアを挟む余裕を失い、それでも彼は、収入増と持ち家の購入という一縷の望みに縋ろうとする。その背景には、たとえばオーウェン・ジョーンズが『チャヴ——弱者を敵視する社会』(11年)で分析した、近年のイギリスにおける階級をめぐる意識の変化が影を落としているだろう。技術や才能、決意が足りないからこそ、労働者階級は底辺にとどまっている。彼らを劣等視し、不平等を正当化するこうした偏見が広まることで、彼らが生活者としての誇りを取り戻す道は、もはや持ち家を購入して中流階級の仲間入りをする以外に存在しない、という誤解が幅を利かせることとなる。リッキーの決意は、明らかにこの発想と無縁ではない。

 マーガレット・サッチャーの「この道しかない(There is No Alternative)」に端を発するこうした傾向に対して、これまでもローチは、労働者階級のコミュニティ内部における人間的なつながりをポジティブに描くことで反抗し続けてきた。彼が描く、長きにわたって地元で苦楽を共にしてきた気心の知れた仲間たちや隣人との助け合いは、主人公たちの決して楽ではない生活の中で、彼らがそれでも前を向いて暮らし続けるためのたしかな拠り所、「別の道」の一つを示してきた。しかし、生活上の理由で引っ越しが避けられなくなれば、もはやそうした地元のコミュニティとの関わりを保ち続けることもできなくなる。それでも、たとえば前作に登場したニューカッスルへと越してきたシングルマザーのケイティは、役所で出会ったダニエルと心を通わせることができた。彼らには、時間だけはあったからだ。

 一方で、マンチェスターからニューカッスルへと越してきた本作のリッキーやアビーには、そうした交流を満足に育む時間すら与えられることがない。リッキーと同僚たちは、世間話をする余裕すらなく、毎朝荷物を積み込み次第すぐに本部を出発するよう強く要求される。また、本部から貸与された発信器は、彼がしばらく車を離れただけで、位置情報を感知して警報を鳴らす。アビーと介護相手との対話も、次の介護先の予約時間が迫ることで打ち切られる。リッキーは、労働者階級への悪しき偏見が決めつけるように怠惰なわけではない。それでも、彼はいつも間に合わない。息子の苦境に立ち会えなかったことで、家族の関係は悪化する。こうしたすれ違いを象徴するのが、彼が宅配ドライバーの仕事中に使用する不在票である。

 顧客とドライバーのすれ違いを示す不在票は、その本来の役割を越えて劇中で二度にわたり重要な役割を果たす。リッキーが娘を伴って仕事に臨んだある日、荷物を運ぶ最中に犬に尻を噛まれた彼が悪態をつくと、それを聞いていたライザ・ジェーンは、不在票に「父の破れたズボン代を弁償するように」、との微笑ましい文言を書き込む。この一見ほのぼのとした場面はしかし、すぐさま反転する。その顧客からのクレームにより、リッキーが就業規則を破って車に娘を同乗させていたことが発覚し、彼は罰金を受けることとなる。労働者の尊厳に一切配慮しない本部のやり方が端的に表れたこのシーンに加えて、物語のクライマックスにおいても、この不在票はリッキーと家族の関係性を示すものとして再び印象的に使用される。

原題のSorry We Missed Youは、この不在票に書かれた文言だ。リッキーは家族を、そして隣人を想う。しかし、彼らとしばしば出会い損ねてしまう。とはいえ、彼は常に家族や隣人とすれ違い続けているわけでもない。仕事の合間に束の間成立するリッキーらと隣人のやり取りは、慌ただしさの中にもどこか滑稽さを孕んでいる。

 たとえば、マンチェスター・ユナイテッドのユニフォームを着たリッキーが、地元クラブであるニューカッスルのユニフォームを着た男の家に荷物を運ぶ場面。一見単に口汚く罵りあっているかのようにも見える、互いに相手の贔屓クラブの悪口を言い合う二人の中年は、しかしこれ以上ないほどに生き生きとした表情をしている。リッキーは、地元クラブのレジェンド、エリック・カントナのトレードマークであった襟を立てて、颯爽と男の部屋の玄関先から去っていく。だが、「エリックを探して」(09年)の主人公エリック・ビショップとは異なり、リッキーの部屋にカントナが助けに来てくれることはない。

 また、アビーがある介護先の女性と過去の写真を見せ合うシーンでは、かつて組合の闘争に参加した記録を示す女性の写真に対して、アビーがセカンド・サマー・オブ・ラブ流行時の野外レイヴでリッキーと出会った日の写真を見せる。現在の姿からは想像もつかないそれぞれのビジュアルが可笑しいこの場面の心温まる対話も、アビーの予定が詰まっているせいで唐突に終わりを迎える。

 おそらく、ここでさりげなく提示される「かつての」サッカー、組合、レイヴのあり方は、いずれもコミュニティの連帯と密接に関わっていた。あるいは、こうした連帯のあり方はいずれも過去の栄光に過ぎないのかもしれない。そうではないと啖呵を切るにはあまりにも現実は厳しい。だが、それでも家族を想うだけでは何かが足りないのではないか。ある夜、苦労して得た一家団欒の時を引き裂くかに見えたアビーへの緊急の仕事依頼を、四人はともに乗り切る。この「家族が隣人を想うとき」に彼らが見せるとびきりの笑顔、ローチからの連帯への呼びかけに応えることができるかは、あくまでも隣人たる「現在の」観客たちにかかっている。


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